むかっときた

友達に書くようなこと。

 

パリでのテロのあと、フェイスブックプロフィール画像トリコロールを重ねるという機能がでた。

こういうのは前にもあって、同性愛婚がどこかで認められた的なときに、プロフィール画像にレインボーカラーを重ねる機能が出てた。

今回はそれのフランス版で、こういう形で知らない人にも意思表示ができるようになっている。コメントとかいいね!から、画像が見られると「ああ、この人はフランスに、あるいは同性婚に賛成なんだな」ぐらいのことを思われるようになっている。

問題はここから。

プロフィール画像トリコロールを重ねることに対して、批判と批判的な言説がやたらと出てきたこと。

フランスのテロなんて100数十人だけど、イラクじゃもっともっともおおおおおおおっと民間人が犠牲になってるんですよ、はやくイラクの国旗をプロフィール画像に重ねろよみたいなことが書いてあります。

他には、哀悼の意を示すならフェイスブックプロフィール画像じゃねえだろ、というものとか。

ほんというと、そこまで喧嘩腰だったり偉そうだったり馬鹿にしてるのは殆ど無い(一部は勿論ある)。冷静にみんな書いてる。それは西欧諸国に与することになるとか、攻撃されたフランスだって手は出してるんだ、それの報復としてのテロなんだ、先にやったフランスの空爆だって民間人に死傷者は出てるんだ、それは哀悼しないでフランスだけ悼むっておかしくないか?みたいなことなわけでしょ。テロで殺される人数ってイラクが世界一位で、トップシェアなんだってさ。あとはシリアとかナイジェリアとかニジェールとか。トップテンには西欧諸国とかは出てこない。そのくらい世界中で、実はテロって起こってるんですよ。西欧諸国の白人様がテロに遭ったら哀悼して、第三世界の土人どもは殺されてても構わねえとか思ってるわけ?とまでは言わないけど、そういうことまで言いたいんじゃねえのか。

でもさ、テロよりも殺されてるのってあるよね。数調べてないけどホロコーストとか、スターリンヒトラーによって大虐殺された地域があるらしいですよ。ホンズのちくまの本のあとがきを少し読んだ。数で言うならそっちじゃねえの。東日本大震災で死んだ人の数なんて、東京大空襲に比べたら大したことないんじゃないの。普段から起こる殺人事件だって、一人じゃねえか、報道する意味あんの。とかさ、そんな馬鹿なこと誰も言わないけど、そんな馬鹿なことにつながっていきそうなこと言われてる気がする。

批判とか、よく考えてトリコロールにしろよな(=よく考えてたらトリコロールにしねえよな)とか、何か凄く違和感があるんですよ。

トリコロールにすべきって思ってるんじゃないです。はっきり言っとくけど。たかがフェイスブックプロフィール画像トリコロールにしたからって何になるの。

トリコロールを重ねることを批判する人は、たかが100ウン十人殺されたテロで大々的に報道してんじゃないよとかまで言い出すわけ?それは冗談としても。

批判する奴あ何がそこまで気に入らねえんだろうって不思議なわけよ。ろくすっぽ考えずに「オッシャレー」ってトリコロールにする人もいれば、イスラム国は皆殺しだフランス万歳って思ってる人までいるだろうよ。十人十色千差万別でしょうよ。十把一絡げに馬鹿扱いすんなよ。

フランスの安全とか平和を祈ったり哀悼の意を表明することってさ、イラクとかシリアを軽視してることに即つながるわけ?じゃあ逆にさ、イラクの国旗を重ねたらさ、今度は「おいおい、フランスの市民の被害は自業自得とでも言いたいのかね」とかなるわけ?

フェアな、文句つけようが無さそうな言い方で「おい馬鹿ども、よく考えろよ」ってことを安全圏から言ってる感じがむかっときただけです。

別に哀悼とか祈るとかはプロフィール画像を変えなくたってできる。変えることはむしろすごくミーハーっぽい。だってSNSですよ。リア充生活自慢ツールで哀悼とか祈りなんてちゃんちゃらおかしいでしょ。ただのパフォーマンスにしか見えませんよ。「意識高いんですー」くらいにしか見られないんじゃないの。祈ってるプロフィール画像でパーティーの写真なんかアップされた日にゃあ、ふざけんじゃねえよって言いたくもなる。大人しくするか、プロフィール画像を元に戻すかしろよって。

でもさ、そーゆー批判・小言ってあんまり真面目で無難で、すごく怪しい。間違っちゃいない、まず角は立たない、何もしないんだから問題にはならない。震災後に自主規制だっけ、不謹慎だっけ、花見しないとか笑わないみたいなことありましたよね、名前忘れたけど。そう思うんならてめえは勝手に自粛してろよって思うわけ。「考えなくちゃいけないこと」ってわりに、ったりめえことしか書いてねえじゃねえか。もっと見逃してること書けよ。

んー、うまく言えない、このイライラ。結局のところ、偉そうに常識の範囲内のことを言ってんじゃねえよってことかしら。さもそれが倫理でござい、みてえな言い方しやがって、ってところだろうか。そんな簡単な話じゃないよって、簡単に言うくせにじゃあどんな話かなんてまるで知らねえ、みたいな奴いるでしょ。常識とかマナーをかさにきて偉そうに説教垂れるやつ。そんなやつを思い出して勝手に怒ってるだけかもしれない。

つまんねえこと偉そうに書くなってことだけかもしれない。

 

 

思い出も夢もモノクローム

フェイスブックでシェアされてた漫画が色覚障害を扱ってて、俄然興味深く読んだ。

 

色覚障害は、読んで字のごとく、色を感覚するのが容易でないこと。

ざっくり言うと、色の区別がつかなくて、薄い濃いは分かる。

 

世の中の障害と同じように、色についての障害と一口に言えても、その度合やら見えない色は様々あって、色という色全てが判断できずただ濃さで区別するのもあれば、

赤と緑の判別がしにくい人もいる。

極端な話、『ノルウェイの森』の単行本版の表紙の区別を字によってすることになる。

 

何を隠そう私も色覚障害があって、赤と緑の判別がけっこうしにくいです。

だから黒板の板書で大事な所を何でわざわざ見難い赤チョークで書くのか不思議だったし、教師ってのはどうしてこう馬鹿なんだろうと舐め腐ってました。

 

色覚障害では一度理不尽な目に遭いました。

今の小学校ではしないらしいですが、昔の小学校では色覚障害検査があって、

色んな色がわちゃわちゃとある紙を見ろと言われ、

そこに書いてる字を答えろと言われる。

 

何言ってんだこいつ、何も書いてねえのに数字なんて言えるわけねえだろと、

既に舐め腐ってますがとにかく、

書いてないものは読みあげられないわけで、読めません、書いてありません、と言うと

担当してた保健の先生に激怒されました。

激昂されて色覚障害が治るわけでは無いことを保健の先生は知らず、

親を読んで親の前で検査すれば色覚障害が治るわけでないことも保健の先生は知らないようで、

「おたくのお子さんは色覚検査でまじめに答えようとしません」と後日、学校に親が呼ばれました。

キレ気味の保健の先生と不思議そうな父には読める数字が、うんざりしてる私には読めませんで、

そこまでしてやっと、ふざけているのではなく色覚障害であることに保健の先生は思い至ったのでした。

 

あのさ、親を呼ばなくちゃいけない検査ってなんだよ。

紙見て読める/読めないで判断できるように検査キットが作ってあるはずなのに、無駄なことしてんじゃねえよって。

 

どう頑張ったって他の人とは見えるものが違うことは、自分の見えてる世界が自分一人のものでしかなくて、世間との距離に拍車をかけられたような気がする。

私が描いた絵が私が描いたように見える人は私しかいない。

綺麗な絵だねとか言われたとしても、見え方は違うわけだから、見当はずれの褒め言葉は嬉しい半面、どうせなあトもっと溝を意識させる。

 

既に捻くれてたのか拍車をかけられたのか、あるいはその両方か、その漫画はとっても違和感のあるものでした。

泣けるとか切ないとかいう物語的なオチに回収しないでくれと。

恋愛とか死とかを派手に見せるための仕掛けでしかなくないか、その色覚障害は、と。

別にそれだって全然問題は無いんですよ。

タイタニック』は船をあるいは海難事故を見せるために作られた映画じゃねえ、恋愛映画だ。

でもたぶん、遺族はあんまりあの映画に対して穏やかじゃないんじゃないかなって。

 

何も腹立てることはない。

でも何か、感動する仕掛けって扱われるのが釈然としないんですよ。

恋人が死ぬのって悲しいって伝えるためには、別に髪が真っ白になったっていいだろうし、声を失ったっていいだろう、物語上の仕掛けに使うんだから、なんだって良いんだろう。小指がうまく曲げられなくなって、手品を大掛かりなものにせざるを得なくなったマジシャンとか、ギターが弾けなくなったけどピアニストとして再起してグラミー賞を何度も受賞するミュージシャンになったとか、そんなでもいいだろう。

ショックで円形に抜けたハゲがハートの形になってたとかでもどうせいいだろう。

 

こういう、個人的には具体的な悲劇が、抽象的な主題を効果的に表すだけの小道具として使われるのを見るたびに、スチュアート・ダイベックが『ライフイズビューティフル』に対して怒ってたことを思い出す。

私の色覚障害は(多少なりとも仕事に差し支えがあるとはいえ)悲劇とは言えない。

主題として認識される愛とか死のほうが大きい。

でもさ、ホロコーストって事実の方が、主題として認識される悪よりも巨大。

 

頭じゃ分かるんだけど、やっぱりなんかいやだ。

そんな簡単に回収しないでくれと思う。愛とか恋とかおっきなことだけじゃなくてもっといろんな細かいことがあるんですよと。

そして色覚障害があると、そのオチの美しさが結局理解できない。そんな美しさがあると言われるけども、たぶん一生、ホントにそんな美しさがあるかわからない。わからないまま死んでく。色覚障害用のメガネがあるけど、極端に言ってしまえば、それだってどこまでかわかったもんじゃない。

 

夢ってカラーなんだってね。人から聞いてびっくりした。

わたしのみる夢がモノクロなのも、色覚障害に由来してるんでしょうね。

思い出も夢もモノクローム

 

色覚障害用のメガネのウェブサイトで検査してみたら、やっぱり緑と赤が見難くかったです。

何回かやってみた。微妙に数字に見えるものは答えてみたり、少しでも見えないとわからないと答えてみたりして、結果、中度から強度でした。

 

あんなので数字が見える人がいるってのが不思議。

色覚障害だとこう見えるって比較画像と元画像との違いがわからない。

変な感じ。

みんな嫌いだって気づいた

銀座線がホームをすべる勢いを風に感じる数瞬前に、よし飛び込めばと思わなくなったことに最近気づいて、

ああ脱したんだなと喜ばしく、

気付くくらいにはUターンしつつあるのかなとアイデンティティを固めています。

 

食べることと寝ることで生きることを誤魔化しています。

欲求を金と怠惰で満たすだけであたかも生きてるかのように錯覚させて、生きてるようなふりをしています。

ラーメン食って眠るために生まれてきたのか。

仕事が遅く終われば、残業代も出ねえブラック企業なのに何してんだろとアホらしくなり、

仕事が早く終われば、そんな当然のことで喜ぶ自分が情けなくなり、しかも早く終わったところですることもなく、いっそう惨め。

 

職人的な部分はあるんですが、その仕事が情熱を傾ける対象には思われない。まったく。

片手間でやるようなこととしか思えない。

そんな下らないことに夢中になってるのかよこいつら、と理解できない。

気持ち悪くすら思う。

馬鹿じゃねえのこいつら、こんなことになに本気になってんの、ほんと頭悪いなって嫌悪感抱いてます。

それとは別に、雑談も面白く無くて、更に軽蔑。大笑いするわりに話しは勢いだけでレトリックも洒落っ気もない。よく素面でその程度のことを面白がれるな。

そんなこと思ってるから飲み会には見え見えの嘘ついて参加しなくなった。

どうせ辞めるし。

 

生理だからって不機嫌振りまいたり露骨なえこひいきしていいわけねえだろバカ。

妊娠して辞める人にしこたま嫌味言うって、おめえ羊水腐ってんのかよ(©倖田來未

ブスで性格悪いってこう見えるのかと他人事なのにうんざりしてくる。

気持ち悪いやつらばっかり。

豚みてえにぶくぶく太った頭悪いおっさんに、

体育会系ヤリチン、

新婚で社内不倫してる穢れチンポ、

もてないチャラ男チビ、

若い気してるデブ。

最低なやつらばっかり。

掃き溜めですよ。レザボア・ドッグス。クズどもの寄せ集め。

誰も尊敬できないから嫌なんだろか。

とにかく、みんな嫌いだから居たくない。だから辞めたいのかもしれない。

やってることが何一つ面白く無い。

ほんとつまんねえことしかしねえ。

よくこんなつまんねえこと思いつくなってことばっかり楽しがる。

ほんと馬鹿なんじゃねえの、頭の悪いつまんねえやつら。

嫌になる。

おしゃれおしゃれって言うけど、数年前のおしゃれがずっとおしゃれかよ、

おしゃれにしろってことは数年後にだせえって思われろってことかよ。

 

雇用形態騙す時点でまともなとこじゃねえんだよな。

労働問題の記事読んだら、正社員採用はされなかったけどバイトのお誘いはあったから、社員化目指してバイトに励んだら夜勤明けに交通事故で亡くなった方のことが書いてあった。

そういう形で人を殺す企業でさえ、社員と謳ってバイトで雇うなんて二枚舌はしなかった。

騙されたから嫌いだ、

やりくちも汚え。

昔連れてかれたマルチセミナーで見た、えばってるやつらと同じニオイがする店長は、

マルチで聞いたのと同じようなことを言ってる。

金があるやつから搾り取れとかさ、

もっと言い方あるだろ。

そりゃあ会社なんだから金儲け至上主義だろうけど、

だからってその言い方は無えよ。

カネ持ってるくせにマズイもん食って喜んでるし。しかも洒落とかじゃなく。

みっともねえなあ。

 

だせえし、くだらねえし、頭悪いし、軽蔑しかない。

こんなつまらない世界があるのかとクリビツテンギョウ。

周りが最高に面白がってることが、一片も面白く感じられなくて、

まるで他人の楽しさをなぞれば絶対に楽しいかのような頭の悪さに耐えられない。

することと言えば酒を無理やり飲ませて終わり。

馬鹿のあつまりが嫌なんだ。

 

尊敬できるところに行きたい。

言葉が出ない

ハマると一日に何回も書いてたけど、今は書くことが無いと思ってしまって、かけない気がしてます。

そう大したことは書いてなくて、殆どが愚痴なので、書くことがあるなしじゃなくて、

書く気分になるかどうかな気がします。

あとは映画とか本の感想とか。

映画・本は触れてないので書けない。

 

暇な割に何もしてない。

駄目だ。

 

沖縄に行ったんですけど、それを旅行記風に書こうとすると気負いすぎてかけなくなる。

旅行と、もう一つのテーマは何だろう、って考え始めると、特に無い。

沖縄に行ったのは友達に会うためで、だから観光地とか全然調べてない。

何も。

会った時点で目的は達成されてる。

 

あ、おすすめは国際通り近くの市場です。

楽しかった。

東京暮らしには珍しい物が売ってます。

ただ、市場で買っても調理できない。そこが難点。

でも楽しい。

市場の2階が食事処で、エスカレーター上がるなり店員さんが「何名様ですか」って聞いてきて、もう案内しようとするわけ。

ありゃ詐欺じゃねえの。

持ち前のナチュラルボーン人見知りのおかげで咄嗟に聞こえないフリをしたことで回避できたんですけどね。

コミュ力高い人だったらお腹いっぱいでも座って何か注文してそう。

いや、コミュ力高けりゃ断れるのか。

 

好きな人にメールを書くのも、かなりとぎれとぎれになってきました。

あのね、書くことが無い。

反応がないから、余計に話がふくらまない。

ラジオパーソナリティってすごいね。

よく喋ることあるよ。作ってんだろうけどさ、

仕事の愚痴と、辞めたい、くらいしか書くことがない。

好きですとか書いてもしかたねえだろ。

書くことがないんじゃなくて、書きたいことが思い出せないのかも知れない。

 

書きたくています。

書く癖をつけたい。

何か書きたい。

書くべきことがない。

書くべきと思えることがない。

何もどうでもいい。

どうでもよくなってる。いらっとすることもあるけど、まあどうでもいいだろとガスが抜けてしぼんでいく。

去勢されてんのかもしれない。

仕事慣れて、慣れるって形で去勢されたのかもしれない。

楽でつまらないのは去勢されたことが嫌なのかもしれない。

イヤダイヤダってなんかずっと思ってて、さっきコンビニに行く途中で帰り道には見えなかった星が見えて、セブン-イレブンの上にオリオン座が光ってて、

人の悩みなんてちっぽけだなって思うところなんだろうかとひねくれてる。

今日末廣亭で市馬師匠が、二つ目になっても真打ちになっても不安はつきまとうって言ってて、やっぱりそれだと思った。

騙されてバイトにされて、ヤケになって社員になってしまって、参った。

いやでいやで、手がかゆい。

なんて言って辞めるんだ。

正直に言うとどうなるんだろう。

不安がなくて嫌だ。

金剛院での落語会で庭を見て、坊さんになるのもいいなと思った。

出家したいんだな。

 

会社の別な部署に「あーこの人好きだな」って人ができたんですが、

どうしてえかってえと、特に現実的でない。

非現実的に言うと、猫にして飼いたい。

そのぐらい可愛い

気が済まない

 

気づいたらひと月ちょっと書いてなかった。

別に書くことがないままってだけなんだけど、書くときが書くことがあるときってわけでもなくて、ただ書かずにいられないで書いてただけで、

今は書かずにいられなくなくているってだけの話。

書かずにいられないときと、書かなくても平気なとき、どちらがクレイジーということはないけど、書かずにいられない方が良い気がする。これは嗜好の問題。

日記だってツイッターだってメールだっていいんだけどね。

でもツイッターは何か書きにくい。誰が読んでるってわけでもないのに。

でもけっこう見てます。ツイッターくらいしか流行りのことに触れる機会がない。

ツイッターでほんの少し話題になってたブレンディのCM、その批評まで読むほどに暇でした。

不快と感じる人続出!らしくて興味津々だったんだけど、全然でした。

え、これのどこがおかしいの。

管理社会で、権力のある男性が生殺与奪権を握ってて、巨乳は出世し、ヤンキーと童貞(偏見)は早めに死すべき運命にあるって、そういう社会に生きてませんのですか我々。

所詮家畜でしかないのよ、このとおりじゃん、など。

牛を擬人化してみたら、殆ど人間と変わらなくてゾッとするよなしないよな。

気づいたってことに思い至りたくないことを、牛のドキュメンタリーじゃなく、もっと人間に近いかたちで示されることで、かえって人間が牛に近いことが示されてて、それで何が不快なんだろか。

闘牛場とか食肉にされるのが男だからでもないでしょう。

わからないと言えば、職場の人(女性・新婚)がヤリチンにスタバでコーヒー買ってきてあげようか、といきなり、そしてヤリチンと新婚女以外にも人が大勢いて聞こえるところで言ってて、一瞬理解が遅れましたが、

 

嗚呼、抱かれてんだな

 

と納得しました。

数学の証明問題を解くのが苦手で、なぜなら補助線が引けなかったからです。

勝手に補って良いのかと。でも抱かれてんでもなけりゃなんでコーヒー貢ぐねん、しかもたった一人のヤリチン相手に。

 

ひと月の間の変化、それは太ってきたことです。

書かないで、そのストレスを食べる快楽にぶつけてたからでしょう。

腹が出てきました。

今まで太ってなかったのはろくに食べてなかったからなんですね。

貧しさが私の体型を保っていた。

今は、腹が出てきたうえに、食べることを身体が覚えてしまって、空腹に耐えられなくなってきてしまいました。コンビニで何か買っちゃう。

十分食べた状態ではなく、そこから苦しいまで食べないと気がすまない。

ほんと「気が済まない」って程度。

 

メクルって雑誌で、あおいゆうを「句の上に据えて読」んだ谷川俊太郎の詩に衝撃を受けました。

本当に詩になってる!

詩人が書いてんだから当たり前なんだけど、それでも本当に詩になってるんですよ。

あんなことされたら惚れちゃう。

谷川俊太郎すげえなって思いました。

損な嗜好

映画見ました。

スティング』と『レ・ミゼラブル

スティング』のほうが好きですけど、どっちもいまいちでした。

スティング』はどんでん返しとか、勝負(=イカサマ)のときの緊張感がいいんですけど、置いてかれてる感が強かったです。

え、ちょっとどういうことなの?と思ってても話は進んでいく。

ふーん、とか思ってると話が進んでる。

みてれば分かる。なので傍観。

撃たれる、あらあら、生きてる、そっか。と、大事なところで今ひとつ共感に欠けてしまった。

 

レ・ミゼラブル』は画面が綺麗でしたね。

ただもうラッセル・クロウの歌唱が下手すぎて邪魔過ぎて、ジャベールが出てくる度に頭の中のポイズンベリーがヘタで埋め尽くされて、映画でしたねって意識が冷める。

それ以外は良いかってえとそうじゃない。

くどい。

激動の時代をしぶとく生き抜いたり儚く死んでったりする人たちが歌うんですよ、自分の内面を朗々と。くどいでしょ。歌いあげても対話はあまりない。

だから心情は思いっきりストレートな人たちだらけです。

俺は生きていく!と思ったら生きてくし、

好き!となったら脇目もふらず、

俺はいったい…と悩んだら死んじゃう。

群像劇かよってくらいに人は出てくるのに、追われるストーリーはバルジャンだけ。

そして長かった。

連続ドラマかってくらいぶつ切りにして見ちゃいました。

面白くなかったんです。

 

有名だから見たのよ。

あと人から面白いと聞いて。

聞くもんじゃないね。つまんなかったよー!!!!とか言いにくい。

おすすめを聞いてつまらなかったとき、人はどうしてるんですか?

なんて言うの?

無難に、良かったよーくらいですかね。

気に入らなかった所を列挙するのはよくないよね。いくら私でも知っている。

面白がれないのは損だなあと思います。

 

楽とつまらなさ

言葉を失うという慣用句は一般的に、ショックを受けてそのショックを言葉で表現できないことで、大体がそんなに長く続かない。3日も4日も唖然と、というのは差別的かもしれないけど、してるってことはない。

最近私は言葉を失った気がしてます。そう書いてるから失ってないんだけど、言葉を失ったような感じがしてます。言葉が出て行ったような感じ。呪いとか強迫観念みたいに言葉言葉言葉だったのに、それが、憑物が落ちたようにぼけっとしてます。その状態がとても楽で、とてもつまらないです。

「世の中ついでに生きてる」というのは落語の形容句で、ぼけっとしてる奴のことを、例えば「火焔太鼓」の道具屋のおやじとかを、指す。そう自分のことを思っていて、あるいはそう望んでいて、世の中ついでに生きてたいなあと思ってたら、いつの間にかそうなっていました。

仕事を覚えてきたのが大きいです。勿論いっぱしってほどじゃないんだけど、楽になってしまって、それでやっていけてるから、まあなんとも楽。楽だと、つまらないです。つまらないけど、ぼけっとしてられるのはとても楽。ぼけっとしててもなんとか勤まるなんて、ほんとにつまらないですよ。休みには友達と遊ぶ用事もないし、急に遊んでくれる友達はいないし、恋人なんてまして。

それでもけっこう充分に楽しいんですよ、生活。最低限の楽しさというか、楽しさの閾値が常人に比して低いんでしょうね。そうとしか思えない。そんなことに気づきましたのは、会社の先輩たちが、仕事終わって別々に早く帰って、こっそりセックスして会社に戻ってきてパーティーしてたのを見て、でした。

世の中には色んな楽しいことがきっとあるんだろうなと、そこに加われない自分を鑑みて(残業代の出ない残業してた)、ぞっとしましたよ。楽とつまらなさに直面しましたよ。憑かれたと言ってもいい。

楽に暮らしてつまんないって言って死んでくのかと思うと、悲しくなりますね。それがついでに生きてるような気がするのに、してみると意外と良くないのは、ニートも一緒。