長嶋有の『パラレル』がどうおもしろかったのかについて書きたい。

長嶋有の初の長編小説『パラレル』を読みました。

ゲームクリエイターの仕事を辞めて妻に不倫され離婚した僕、

大学からの友達で今は会社を経営しているプレイボーイの津田、

離婚後も頻繁に連絡をとる妻、

の三人がメインの登場人物で、

舞台は殆ど東京あたり、

時間は8月30日から12月上旬までで、結婚式に出たり飲んだり京都に行ったりする。

その間に、津田との出会いからこれまでや、妻と離婚するに至った経緯や離婚してからの出来事等々が回想として挿入される。

急な挿入じゃなくて、場所や人が回想を導入する契機になっているという点で、意識の流れなんだけど、それが章立て的に明確に区切られている。

 

で、面白かったです。

長嶋有の『パラレル』がどうおもしろかったのかについて書きたい。

それを書くのは難しそうだけど頑張る。

 

この前には堀江敏幸の『いつか王子駅で』を読みました。

なぜこれを読んだかというと、この前に長嶋有『ねたあとに』を読んだのです。

この小説は何も起きないことを書いたものらしい。

実際に何も起きなくて、舞台である山荘に集まる登場人物たちがオリジナルの遊びをして過ごすのが描かれている。

それを長嶋有の父は解説で「純粋な生活」と読んでいる。

男女が集まって、しなければならないこと無しに夏に涼しい山荘で数日を過ごすという舞台設定は恋愛が起きておかしくなさそうなものの、

色恋沙汰にはならず、

さらには食べるというセクシャルな行為ほとんどなく、

眠ることよりも遊びが優先されていて、

つまり欲求のかなり抑えられた生活でもある。

文庫の裏のあらすじのとこに、「大人の青春小説」とあった意味は、このひたすら遊びということにあるのであって、

男女9人夏物語(だっけ?)みたいなのではない。

そんな何も起こらない小説の何が面白いのかと思われるむきもあろうが、おもしろいのですよ。

この面白さは「あるあるネタ」に近いものがある。

あるあるネタ」っていうのは、身近にあるのに気付かないことを指摘されて初めて、日常にたくさんあるけどたしかにヘンだよねと気付くもの、だと思う。

あるあるネタを楽しむのはそう難しくないけども、出すのには独自の視点が要る。

普段の生活を普通じゃない視点で眺めることで出てくるものだからで、

のんべんだらりと暮らしていては見つからない。

いわゆる批評意識みたいなのが必要で、例えば外国人の視点から、不思議と言い続けると多和田葉子的になると思う。

長嶋有の場合には外国人の視点でもない。

ではどんな視点かというと、ちょっと抽象化して言えないのだけど、ひとつの例としては長嶋有が書いている『電化文学列伝』にあらわれているように、電化製品に注目するなどがある。

(主に)文学に電化製品がどのように書き始められてきたかという問題意識から書かれている。

昔の作家は固有名詞をできるだけ作品に描かないできたという。長嶋がひいてた例だけど、丸山健二はビートルを「カブトムシのような形の車」と書いてるらしい。そこまで書くならもうビートルと書いたほうがいいものを。

日本人の平均的な水準の生活に固有名詞がどっと増えたのが高度経済成長期以降らしく、商品名が生活を囲み溢れされたが、

小説家は商品名に抵抗するように、作品内に描写することを避けてきていたという。

なんだかそれは、丸谷才一が旗印に掲げていた「市民小説」というものと近いのじゃなかろうか。

「市民小説」という言い方自体が丸谷のオリジナルか、中村真一郎とかが言い出したことかはちょっとわからないけども、

丸谷が主張するところの日本の近代小説の問題点は「主人公に職業がないこと」だった。

彼らは何をして暮らしているのかはわからないけども、働かないで生きているというのが、小説として問題だったらしい。

何故かと言うと、丸谷が敬愛するヨーロッパの小説、小説という新しい形式が生まれ育って伝統にさえなっているヨーロッパの小説では、市民社会を描くために職業が重要視されているのだけど、

日本の小説は職業が描かれないことで市民社会が描かれていない。それが問題なんですと。

なので、『笹まくら』では徴兵忌避をして日本中を旅して回る主人公の職業が詳しく描かれ、またその現在の國學院大學(?)の大学事務員として働く勤め人の苦労が描かれているし、

『たった一人の反乱』では物語の動き出すところが会社だし、物語のきっかけが出向拒否(だっけ)だし、

『女ざかり』ではどこにでも行ける職業としてジャーナリストを選んでいる、など、職業をきっちり描いている。

ヨーロッパという小説のモデルがあり、そこでは市民社会を描くべしとされているというところから、「市民小説」を標榜し、その具体策として職業を描いた。

では、長嶋有の場合は何がモデルなのか。

『電化文学列伝』に書かれているところからすると、小説の中に出てくる電化製品を描くことはそれまでの小説の規範からは外れたことであり、それは日本の文学における規範の更新が行われたところに着目したということであり、

この評論では電化製品に着目したのは先ず、文芸批評において自らの小説に描かれた電化製品の扱いに着目してほしかった、というくやしさ(?)から発しているらしく、

ウェブ上で連載が開始された頃には自作の電化製品を論じるものだったらしいが、単行本化、文庫化されるにあたっては改題されただけで自作評は増えていない、と思う。

電化製品に着目し、日本文学における一部の規範の更新を描いた力作評論だが、この規範は電化製品にだけ当てはまるものではなく固有名詞一般に当てはまると言えるのは、

法政大学大学院で長嶋有を教授として迎えて作った冊子に、長嶋有の作品に出てくる固有名詞一覧があることから気づいた。

たしかに、小説ってあんまり固有名詞ない。

水村美苗の『新聞小説』を読んだときはGmailとか出てきてなんだか落ち着かない気持ちがしたのは規範があったからなのでしょう。

実際の生活にはgmailなんてあたりまえの存在なのに、それが『なんとなくクリスタル』みたいに戦略的じゃなく用いられると、気まずさがある。

もっとちゃんとしてなくちゃいけないのに、ふざけてるようみ見える、というと言い過ぎな気がするけれど、そんな感じ。

それは「小説とは偉いもの」「俗なものは書いちゃだめ」みたいなのがあるんだと思う。

性表現や暴力表現を見ても顔をしかめない。それは過去に乗り越えられたことを知っているから。

むかしは性表現や暴力表現も、文学には書くべきではなかったのかもしれない。

残ってきた聖域というか、書くほどでもなかった日常生活というか。

しかし、その日常生活も改めて小説で目にするとぐっとくる。

『ねたあとに』で、「ばあちゃんの夜の口癖は「寝ろヨー」で、昼の口癖は「エビオス飲めヨー」じゃないか」というような一節があって、私は感動して泣き出さんばかりだった。

これは詩だ!と思った。

日常生活を、規範から漏れるものまで書くことでどのような「世界のありよう」が実はどのようなものであるかを書いているのが『ねたあとに』である。

作品内で「ムシバム」という、山荘内の虫の写真だけのブログがあり、作品の後半になってその批評性が語られるが、家にいる虫だけを撮ることは家を撮るための方便であるという。

つまり、純粋な生活をする人々を描くことで、イデオロギー的に構築された日本文学の規範からはみ出た(あるいは規範も含んだもっと広い)世界のありようを描くことを目的としている、という表明である。

ああ、そうこれが『ねたあとに』のおもしろさでした。

『電化文学列伝』を読んで感動し、『ねたあとに』を実践として読んだときに思ったのはこれだったのだ。

スッキリ。

 

で、日常を描いた小説として『ねたあとに』といっしょに買ったのは吉田健一の『東京の昔』でした。

こっちはまだ読んでいない。

買ったくせに、まだ時期じゃない気がしていて、『いつか王子駅で』を買ったんでした。

買うつもりでいたのは、

・派手なストーリーものではない

・大人の生活の話

・日本語で書かれた本

・できるだけ現代の小説

・文庫で200ページくらい

・長編小説

という点から選んだ。

でも自分の選ぶ癖からだから、どうしても本屋では見慣れたところしか見られない。

堀江敏幸は初めて買った。

買うときはけっこう悩んだけども、おもしろくてよかった。

王子駅というのは東京の駅で、JRと地下鉄の駅があるけっこう大きいところ。

けっこう大きいからなのか、小説にはその隣の尾久駅都電荒川線が出てくる。

強引に要約すると、飲み友達が飲み屋にプレゼントを置き忘れたままいなくなっちゃって待つ生活の話。

ザ下町という描かれ方をしているが(そういうものか)と思ってしまうという点では侯孝賢の『珈琲時光』みたいな話。

ああ、私も飲み屋の女将にデートに誘われたいものだわ。

渋すぎというか、かっこつけすぎというか、枯れ過ぎというか、そんな世界観の主人公が嫌味とは私には思えないのはこの人が裕福とはいえなさそうだからではないか。

あと同年代の友達がいないというか、流れ者感がある。

人に進んで語れない過去の有る知的な男が、下町の自営業の人たちに迎えられていく話。

インテリ版高倉健みたいな。

あ、でも、印鑑職人の正吉さんはそのまま高倉健ぽい。

作品世界にとても統一感があるがあって、とっつきにくさがある。

 高倉健ぽさとは、とっつきにくさかもしれない。

高倉健に文句つけるなんて、『居酒屋兆治』のときの伊丹十三になったみたいだけど、たぶんあの役の伊丹十三も『いつか王子駅で』は好きじゃないんじゃないだろうか。

えっと、別に悪くいうつもりではないのだ。

ただ距離をとって感想を言いたくなるけどそれが言いにくいってこと。

 

で、次に読もうとしたのが長嶋有の『パラレル』か、湯本香樹実の『岸辺の旅』。湯本香樹実は最近の作家にしては珍しく、予測変換に出てこない。

『夏の庭』なんかもう古典じゃないでしょうか。

なのに。

『ポプラの秋』も好きだ。

『西日の町』もなかなか良かった。じいさんがバケツいっぱいに貝をもって帰ってくるとこが印象に残っている。

読み返そう。

『パラレル』を選んだのは、長嶋有が好きなのと、『岸辺の旅』が重そうだったから。

『いつか王子駅で』もユーモラスでなかった。

長嶋有はエッセイ的なんだと思う。

実際、この小説にエッセイで使われたネタが出てきた。

弟子とテトリスマグライトは入れていいか悩むところ。トレインスポッティングもか。

弟子の話題は話の流れに関わってくるから結果的にタランティーノ的雑談ではないんだけど。

いつかどこかで加藤典洋が書いてたんだけど、長嶋有は無駄な文章がないんだってね。

芥川賞的とも言っててちょっと物足りないくらいの感じの発言だったと思う。

表紙の裏の説明でも「思わず書き留めたくなる名言満載」ってあって、たしかに、と思う。

「結婚とは文化をつくること」とかね、と書いて気づいた。

これもしかしたら石田純一のパロディじゃないか。

だいぶ書いてしまって、『パラレル』の感想を本式に書く段になって疲れて、ちょろっと書いて終わってしまいそう。

失職、親友、離婚、恋人などなど、読んでる間は気づかなかったけど、

村上春樹っぽかった。

いや、その4つの要素だけで村上春樹ぽいと片付けてしまうということがどれだけ強引かということはそこそこわかってはいる。

公園でコロッケを買って食べるときの有名な作家って村上春樹じゃないかしら。

ソースをかける擬音の「しょしょっと」なんてとても村上春樹風じゃーあーりませんか。

でも、こだわってるのが紅茶なのと、会社の話が出てくるのは村上春樹ではありえない。

というか、村上春樹ぽいと思ったのは要素からではない。

ラストのほうで友情ってやつですな、というセリフがあってまず『ロング・グッドバイ』の二人の友情を思い出したんですよ。

で、「僕」と鼠を思い出して、そういえば『羊をめぐる冒険』では離婚してたなとか、あれは友達の話だったなとか。

村上春樹のようなバタ臭さは『パラレル』にはない。

「ラグーのパッパルデッレ」が出てきても、かっこよくない。

ラグーのパッパルデッレによってキャラクターを「ラグーのパッパルデッレを食べるような〜な人」みたいに説明しない(固有名詞の話再び。これは知識とか紹介とか、周辺と中心という多元システム的な説明が可能かもしれない)。

おしゃれじゃないというか、構えていないというか(構えていない人のように構えてるのではないか、とお嘆きの諸兄もいらっしゃるかもしれない)、

なんつーか、また同じになるけど、エッセイっぽいんだよね。

エッセイっぽいからこそ、「クモ膜下出血じゃなくてよかった」ってとこの必死さが泣けるんだけど。

羊をめぐる冒険』は友情の話がメインだったけど、『パラレル』は離婚小説でもある。これについては『電化文学列伝』における干刈あがた論が参考になる。

干刈あがたは私には『ウホッホ探検隊』の原作者であり、(たしか)現代詩文庫の永瀬清子の解説だか巻末エッセイを書いている人だった。

どちらも、(当時の)現代における結婚していて母であり妻である女性の存在について書いていたと思う。

『ウホッホ探検隊』は、父母兄弟で構成される一家で、食品メーカーの研究所で単身赴任をしてる父に女ができたので離婚するけど、不倫相手にもふられてまた元に戻りそう、で終わる話。

母は雑誌でライターをしていて、インタビューでは野球選手やミュージシャンに会って、ナンパされたりもするくらいの、真面目ないい感じの人。

離婚が大事件ではない時代と環境における離婚にまつわる母とか妻とかいわれる位置の女性とその家族の物語。

長嶋は干刈あがたの文学を、固有名詞の取り入れ方の早さと固有名詞にならない物事の取り入れ方の果敢さ、つまりは世界を描写する平等性において高く評価している。

物事が記憶になる前に、現前する段階で五感に入る物事を平等に描写する姿勢というのは、言い換えると、イデオロギーによって価値付けられる前に、世界のありようをや人間の暮らしを描写する姿勢、ということになろうか。

長嶋有萩尾望都との対談で小説を書くにあたってモデルとする作家はいなかったというが、干刈あがたはこの点ではかなり手本だったのではなかろうか(テーマとかのモデルの話かもしれない)。

あれ?読み直したら、干刈あがたのことをあまり多く論じてなかった。

別れても仲いいというのはすごくよかった。

別れるようにならないことが第一かもしれないけども、仲いいってのは羨ましい。

別に別れたあとで仲良くなくても、別れる前に仲良くてもいいんだけど。

『ユー・ガット・メール』でのメグ・ライアンとその彼氏の円満な別れ方を思い出させた。

んー、いまいち消化しきれてないからあんまり書けない。

 

次は何を読もうかと迷う。

うちの本棚にあって、候補として持ってきたのが

『タンノイのエジンバラ

ジャージの二人

『岸辺の旅』『忘却の河』

『残光』

でも、いまいち食指が動かない。

難しくないのがいいんだ。

できるだけ、読んでも勉強にならないのがいい。

楽しいだけのやつ。