どうにも、短編は物足りない。

昨日、長嶋有の『ジャージの二人』と『タンノイのエジンバラ』を読みました。

 

ジャージの二人』は、短篇集で「ジャージの二人」と「ジャージの三人」が入ってる。

二人というのは、父と息子。

父は三度目の結婚がうまくいかない。父の友達も結婚がうまくいっていない。

息子も結婚がうまくいっていない。妻が不倫の恋に夢中。しかも無職。

で、そんな二人がぼやっと山荘で過ごす。

山荘は、祖母が戦後に買った北軽井沢にある、改築に改築を重ねた家。

あんまりぼやっとしてて、どこが焦点かわからないくらいだった。

で、「ジャージの三人」ではその後が描かれる。

ジャージの二人」の翌年、父と息子とその妻の三人で山荘にやってくる。

妻が帰って、腹違いの妹がやってくる。

妹のピアノの先生が亡くなって、山荘がおひらき。

そんな流れに、妻との関係が関わってくる。

妻が不倫をしてるというのは『パラレル』でもおなじみの設定。

山荘というのは『ねたあとに』でもおなじみの設定。

おもしろく読んでたはずなのに、なぜか内容が思い出せない。

夢中になって読んでたんだなあ。

ちなみに、和のつくりは口偏なのです。禾偏ではない。

だから読み方が叶と同じなのでしょう。

 

 

『タンノイのエジンバラ』は四篇からなる短篇集です。

「タンノイのエジンバラ」ではまたしても無職。

「プルートが犬なのは、プルートだけ恋人がいないのにみんなと同じく二足歩行じゃやりきれない」というのが突き刺さった。

やりきれない。

「夜のあぐら」は遺産相続でもめる後妻とファザコンの姉の対立が生むいろいろの話。

読みにくかった。

バルセロナの印象」ではやっと職のある主人公が出てくる。

飼い猫がいなくなった姉を慰めようと、妻と主人公と三人でバルセロナに行く。

グエル公園サグラダ・ファミリア教会やら、うねったマンションやらを見る。

別行動のときのカッフェーのシーンがいい。あんな経験を外国旅行でしてみたい。

「三十歳」では女性が主人公。

元ピアノ講師で、不倫が元で辞めて、いまはパチンコ屋のバイトをしている。

パチンコ屋のバイトを始めた年下男との淡い恋と肉体関係と別れ。

 

どうにも、短編は物足りない。

面白いんだけど、すぐ終わってしまう。

いま「サイドカーに犬」を読んだところ。

これは、あんまり私の好きな感じではない。

やっぱりひとりの作家に決めて読む場合は処女作から年代順に読むのがいいよね。

そういう読み方してたらこんなに長嶋有ファンにはならなかったけども。

最初に読んだのは『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』で、次が『ぐっとくる題名』というむしろブルボン小林好きとして始まった私の長嶋有遍歴は、祝!大江賞受賞!という下手な字の帯に惹かれて買った『エロマンガ島の三人』で小説家サイドを歩み始めたんだったと思う。

で、タイトルほどの笑いはなくて、なんか期待はずれでした。

で、『夕子ちゃんの近道』でのエッセイっぽい会話を読んで(この人はすごい)と思ったんだったと思う。

そして『電化文学列伝』の単行本で(高野文子じゃん!)と思い、しかしその時には買わず、文庫化されてからハマった。

何も起こらない風なのがいいので、何かが起こるとそれは終わってしまうので、寂しくなるのかしら。

だから長編が読みたいんだろか。

それとも現実逃避としての読書だから、早めに逃避が終わるのが嫌なんだろか。

そっちだな。

そっちだろうな。

 

映画よりも没入度合いが深いので、最近は現実逃避にはもっぱら読書です。

長嶋有の次は干刈あがたを読もうかなと思っています。

吉田修一も気になっている。

昔『パークライフ』を読んでぴんとこなかったのが気になっている。

未だにピンと来ないだろうか。

 

それとも恋愛したいんだろうか。

恋愛小説ばかり読んでる気もするが、恋愛小説じゃないと今度はしちめんどくさい話かもしれないので避けてるような気もする。

自分が読みたい本だけ読みたいんだけど、つまり、読んで大きく心を揺さぶられたいんだけど、

揺さぶられるとわかって読むと大していい結果は得られない。

ほおほおとか言いながら鼻ほじってるときにドカンとくる。

そういえば『スプートニクの恋人』はそろそろ読み直したい。

あれは今読んだらけっこういいかも。

きらきらひかる』とかも。

中学時代にはよくわからなかったから。

今読んだら面白く読めるかしら。

 

映画じゃなくて長編小説にはまってるのは、映画が長めの短編小説か短めの中編小説を原作にしてると丁度いい塩梅だと思うからだろうか。

長編小説を原作にすると、映像化されたダイジェスト版に見えてしまう。