惰性で悩んでしまう

映画見たんですよ。『コレラの時代の愛』ってやつ。

ガルシア・マルケスが書いた同名の小説の映画化。

コレラっぽさはあんまりない。

あんまりなかったね。

コレラっぽさがほしいわけではなかったのでいいけども。

 

コレラが出てきたのは三回だったと思う。

コレラかな?ってのと、コレラだからあの船避けようってのと、最後。

積極的に読み込んでいけばコレラが重要なのかもしれなかったけども。

 

初恋の相手を想い続けるあまりヤリチンになってしまうも、初恋の相手に初めては捧げるつもりなので、別枠としてセックス自体はしまくる。経験人数は633人以上はいる。

スゴイネー。

そんなにしたら飽きるんじゃないだろか。

いや、本能から出るものだから、食べることや眠ることに飽きないように、飽きないかもしれない。

大槻ケンヂなら飽きるかどうかわかるはず。

 

なぜそんなに女性にモテるんだと聞かれて主人公は「私が空虚で哀れだからだ」みたいなことを言う。

ちなみに、その初恋の相手も主人公をさして影とか幽霊みたいとか言う。まあそれは空虚ってのもあるけども、どこまでも付いて回るみたいな意味で言ってるってこともあるかもしれないにせよ。

空虚なやつなんていっぱいおるで、わしも今かなり空虚やで、空っぽで虚ろやで。

でもセックスできないのは、外に出てないというのもあるだろう。

主人公は外でひっかける。

ナンパとは違って、もうここが卑怯、じゃなくて優れているところなんだけど、女に気に入られているのだ。自然に会話が始まっている。これはちょっとすごい。

そっから家に呼ばれて、呼吸が苦しいの云々からコルセットを外したらどうのこうの、ああん、あああんみたいな。

すげえや。

やっぱり何かあるんだろうね。

51年9ヶ月と4日も想い続けることよりも、それがかなってしまうことよりも、このヤリチン具合が一番解せない。

想い続けるのはもう個人の好みで、そういうのもいるだろうよ。

かなってしまうというのは、いなくなってしまわないこととも関係してて、これは舞台がコロンビアの地方都市で、時代は19世紀後半から20世紀の30年くらいまでだったかな、だから、というのも早合点なのだけど、やっぱりそんなのに移動しないよね。いや、この話の中ではけっこう移動するのよ。それでも元居た都市には帰ってきやすいよね。

年末年始と夏休みだけ帰ってきて、なんてことにはならない。

そうやって思い出すとなかなか楽しかった映画でした。

やっぱりセットに金はかかってるし、メイクはばっちりだし。ハビエルバルデムが痩せてる!という驚きから、だんだん老けていくのがすごい。

これがあの、ウディ・アレンの『それでも恋するバルセロナ』の人か!と(だったはず。違ってるかもしれない)。

勧めはしないし、悪くも言わないけども、かと言ってつまらないわけでもない。悪くない。積極的にすすめないだけ。見て損もしない。安心安全。

 

小説は読み進んでないです。

吉田健一の『東京の昔』っていうのを読んでて、まあ吉田健一だからあの文体で長いのもあるんだけどちょっとわかりにくい。

英語とかフランス語のほうが得意だった人らしからぬ、敢えてなんでしょうね、省略というか、もっとクリアにできそうなところを日本語はこうですから、という感じに、長く長い文章の割には全部言うことをしないで、避けている、ように見える風に書いてあると、こちらとしても、電車の中で読むだけではちょっとモードに追いつかなくて、進まない。

かといってだ。これもやっぱりつまらないということもなくて、吉田健一の文章らしく吉田健一らしいことが書いてあると言う他なく、それがなかなか読ませるなんてもんじゃなく、良いんだけど、読みにくいのは読みにくい。

だから、何時まで経っても進まなくて、いくら面白くても進まない読書というのは堪えるから、勢い、あまり手に取る頻度もなくなる。

となるとだ。やれもかに読んじゃうしか無いんだよね。

この作品は堀江敏幸の『いつか王子駅で』って作品を思い出させて(この英題はsomeday my prince station will arriveなんですかね)、インテリみたいな何の仕事してるのかわからない、と書きたくなるけども戦前の東京は職に就かなくてもちょこっと稼げばけっこう暮らしていけるところだったらしいことが冒頭に書いてあるので、何の仕事云々は言わせないようになってるけども、『王子駅』も同じで仕事してるはずなのに申し訳程度に仕事に触れられてて、生活に主眼がある。それも周りの、主人公のようなインテリとは違うタイプの地に足の着いた、ダウンツーアースな方々と、飲んでる。

人と話して、飲み食いしてられるんだから、まあ楽しいわな。羨ましい。

仕事にあぶれてる私はうらやましすぎてこの本が読み進まないのでしょうか。

 

心のナントカに小説がよろしいという研究結果がどこかで発表されたっちゅうのをニュースで読んだけど、それが最近足りないから私もダウンツーアースな感じなのかもしれない。

不思議と、映画を見てそのような浄化感はなかった。もちろん映画なりの「ふー!スッキリ!」はあったのだけれど、やっぱり内容の違いもさることながら、メディア自体の特性の違いからか、読後感、鑑賞後感は違いますね。同じなわけがないんだけどさ。

そういうのはもって生まれたものかもしれないし、育ってきた環境もあるだろうね。

はやく読み終わらないと次の小説が読めないというのがけっこう問題だ。

どうしたもんか。と惰性で悩んでしまうが、読むか、投げるか二つに1つだ。

それに、悩むべきことは他にもある。他にもあるはずだぞう。