そうじゃねえだろと。
書けることはここに書いてたはずだったんだけど、唯一の読者である人がディランのライブに行ったことを知らなかったので、書いてなかったことを知った。
行ったんですよ。
ジャパンライブハウスツアーin Zepp Divercity
前回の2010年のライブにも行って、その時はカルカルの下が会場だったので、今回もそこかなと行ってみたら、氣志團ぽいかっこうの人がいるじゃありませんか。
今日はディランだよwwwとは思わず、(あ、会場違うとこだ)とまっつぁおになりつつ確認しました。
前回のライブは前の恋人と付き合う前に行ったのでとても感傷でした。
せっかくなので思い出の場所に行きました。
その名も「スンガリ・ラリョーク」ロシア料理店です。in フードコート。
その時はデザート付きのセットを食べました。美味しかったかどうかは覚えてないけども、そのとき彼女(She)の歯並びが綺麗だと気づいた、はず。
ディランのライブでは彼女は背が低く、ディランが殆ど見えなかったと言ってた。
思い出そうとすると、自分の忘れてたことまでリアルタイムで経験してるように浮かび上がってきて面白いけども、もっと多くのことを忘れてますね。
驚くべきことに、その時の彼女の容姿を頭では理解してるのに、映画のように思い出してるといつの間にか違う女性になっている。頭では違う人とわかってるのに、頭は頭で忘れさせてくれてるのかもしれない。
さいきん読んでない小説というものをよむべく、ナガブロしてて、カーヴァーの「ビギナーズ」を読みました。これはかつて「愛について語るとき私たちの語ること」という題で発表されていたもので、実は編集者の手がジョキジョキに入ってたので、名が売れて晩年にカーヴァーは自分一人でさらに書きなおしたんだけど、没後何年か経ってから一番古いヴァージョンの編集の手が入ってないオリジナルが発見されてそれが『愛について語るとき私たちの語ること』と同じ順で再編集された、カーヴァーのもとの作品はこうだったんだ版の、そのタイトルトラックを読みました。
大筋では変わらず、二組の夫婦が愛について語る話。自分たちのそれまでの愛や、職場で経験した理想的な愛、うまくいってる夫婦のこれからの愛など、現実的で抑えめに語られる。
なんで読んだかというと、DPZのラジオを今、どわーっと聞き返してるところなのです。その中でフジワラがあまりに喋るのが下手で、それを林さんに「人生の初心者みたいだ」とからかわれてて、林さん!それはカーヴァーだよ!ダンテじゃないよレイモンドだよ!と思ったからです。
たしか、「わたしたちって人生の初心者みたいね」とか言う台詞があった。どうしてもうまく行かない人のことをさしてたと思う。
私もまた、人生の初心者っぷりを出して、殆ど路頭に迷いかけてるのだけど、気持ちを落ち着かせるために、読もうとしたのでした。
ところが、だ。ジャストの台詞はなくて、「まるで僕が恋愛の初心者みたいに言うけども」みたいな台詞だった。
そのあとに続く話はこう。今、結婚してるけども、そして正に愛情を抱いてるわけなんだけども、この前の妻にも同じように愛情を感じていたことがあった。そして勿論、結婚するようにならなかった恋人にも同様にはっきりと愛を感じたことがあった。そしていつか、もしかしたら今の結婚生活は例えば自己で失われることもあるだろう。そんなとき、救いでもあるのだけども、絶望的に落ち込んだとしても次の相手が現れて恋に落ちて愛するだろう。そういうのはどう考えればいいんだ?僕にはよくわからない。
と、いう長広舌の後に更に長い、そしてかなりぐっとくる老夫婦のエピソードが続けられるんだけど、そればっかりはさすがに読んだほうがいい。
実際に、いくら愛情があっても、やっぱりその後にも別な愛情が生まれてくるんだよね。という具体例を、ディランのライブを通じて思い出した前の恋人のことを、なんだか思い出して、それがうまく思い出せなくて不思議。
で、ですね。ディランのライブはとてもかっこよかった。前回よりもかっこよかった。
もうアイドルですよ。ギャーギャー叫んじゃったもんね。
Love sickで、マイクスタンドに手をやってポーズをとるんだけどそれがもう。
前回はライティングの演出が特にかっこよかったんだけど、今回は物凄く演出的なことは控えられてて、だけどディラン自身だけがひたすらにかっこよかった。
あと、歌がうまいんだなって思いました。上手い下手っていうか、表現力というか、オリジナルというか。
ディランについて書きたかったけど、かっこいいってことで十分。
『アデル、ブルーは熱い色』って映画の感想もかくの忘れてた。
前評判ほどは衝撃的じゃなかった。
レズビアンのセックスシーンが美しいとのことですが、言ってみればAVがセックスのライブ版で、映画のセックスシーンはスタジオ録音みたいなこってすね。
だから生々しさよりも映像感が強かった。
映画館で見ると大画面で素晴らしい音響があるからいいんだけど、けっこうな確率で後ろの人が椅子の背に足をぶつけてくる。
そうなると神経質な私にはもう映画どころではなくて、物語中に邪魔される場所になってしまう。
邪魔されにきました、みたいな。
そりゃ、家で見ててもケータイが鳴ったり(ならないけど)、荷物が届いたりと邪魔は入るけどさ。
じゃあ映画館も背中をドスドス蹴られる場所と覚悟していけばいいんだろうか。
そうじゃねえだろと。
ちなみに、今回背を蹴りつけてきたのは白人の爺さんでした。
あーゆー人がいるから外人嫌いが生まれるんだなあと思いました。
それとも欧米では映画館の背をドカドカと蹴り続けるのは紳士の嗜み、前の席への最低限の礼儀、男らしさのアピールなんだろうか。
異文化だからそれは有り得ない話ではない。
この前、中国人の女の子と話してて、相槌がかなり少ないので、何度も「聞いてる?」と聞いたら、聞いてますよなんで何回も確認するんですかと怒られた。
中国ではかなり少ないようですよ相槌。あんまり相槌うつとうるさいって言われるんですと。
「相槌や反応がないと聞いてないように見えちゃうんだけど、相槌の少ない世界では聞いてないなって思うのはどんなときなの?聞いてようと聞いてまいと話し続けるの?」と尋ねてみたけど、はぐらかされてしまった。
相槌に関しては異文化ということで押し切られてしまった。
反応について、ディランのブートレグシリーズの中のロイヤルアルバートホールのやつ、Disc1はアコースティックの弾き語りで、Disc2のザ・バンドを従えた編成のとは違ってオーディエンスがかなり静かなのね。それを評して「客はディランの音を一音も聴き逃すまいと音を立てていない」とする人と「観客はバンドに夢中で、もはや弾き語りには何の反応も示さなくなっていた」と理解する人がいて、変な感じがしたもんじゃった。
ディランくらい凄い場合は別として、相槌の無い会話とひとりごとでは何が違うのかしらと思ってしまう。
それはブログの場合と違って、つまんねーなーと思ってる人の時間を潰してることだからね。ブログの場合は誰も読んでないし、途中でやめられるし、うっかり最後まで読んでしまった!という場合もないでしょうからいいんですが、はやくおわんねーかなーと思われてる会話ってのはけっこうきついものがあるじゃろう。
相槌って打たない人はほんと打たないよね。電話口でうなづくやつとかいるよね。微笑むだけとか。音声のみのコミュニケーションだぞ。
しかし、頼まれもせずにだらだらと書いてるのも独り言と考えるとちょっと異常に思えてくる。
独り言をおばさんが言うのだけど、おばさんが嫌いなせいもあって、独り言って気味が悪い。自分が言わないからでもある。言えば良いってもんじゃないかもしれないけども。
「中出し天国」という題がFirst heaven of creampieって書いてあって、その天国はheavenでいいのかと。
ヘヴンに「〜し放題」の意味はあるのかと。