本の感想と仕事の話と失恋の話

本格小説』を読んでました。

面白かった。

これはおすすめ。

けっこう長いけども。

 

ストーリーは、

戦後日本を舞台にした、

アメリカで立身出世した貧乏少年と、

お金持ちの女の子との、

幼馴染みラブストーリーなんだけど、

こう説明すると違う。

中身はそうなのにね。

別に、中身は違うってとこがミソではない。

 

単にストーリーが面白くて、ぐいぐい読んでしまった。

語り口は凝っていて、

自分の生い立ちに関わる小説を書きあぐねているところへ、

自分の生い立ちに少しだけ関わりのある人の話を聞いてしまった。

その話がなんとも小説になる!

しかし、『嵐が丘』に似ていた。

とは言え、『嵐が丘』の作者とは傾向も才能も違うし、時代も違うしで、書いちゃう!

っていうまえがきがあって、

本編は、その話がどう語られたかっていうのを再現してて、

それが入れ子構造になってて、主な語り手は、

作家:M

Mに伝える人:Y

Yに伝える人:F

Fが語る話の主人公:T

で、図式にすると、

『M(Y(F(T)))』ってなる。

『』は本格小説のこと。

別にその入れ子構造に興奮したわけでもない。

 

(戦後の)貧しさとか、未来への希望の無さを嘆くところとかに興奮しました。

「こいつは俺だ!俺なんだ!」と三船敏郎ばりに何度も文庫本を抱き抱えながら読んでました。

 

おふみさんがすることもなく上野の西郷さんの像に行って、

自分にはもう何も輝かしい未来なんて無いんだってなくところに思わず滂沱。

タロちゃんが酒を飲んだ決意を知っては滂沱。

私にも思い当たるフシが無いわけではない。

仕事始めて、久しぶりに会う人皆に「痩せた?」って言われ続けて、

久しぶりに鏡を見たら、

げっそり痩せて目の下にはくまができていて、

(『異人たちとの夏』で見たやつだ)って笑ってしまった直後に、

お化けと楽しい思いもしてないのに、

なんでこんな見た目になるんじゃろかと情けなくなって、

ああ、これはおふみさんの気持ちだと思ったり、

好意をよせる人からは拒絶か無視されたりして、

ああ、タロちゃん、俺はお金ないけど気持わかるぜと思ったりした。

 

あと面白かったのは、

そしてここが勧めどころでもあり、

かつこんなところ勧められても読まないだろうポイントは、

ロマンスの山場を超えてから終わらせるまでがとても丹念に描かれていること。

目次は、

序 9

本格小説の始まる前の長い長い話 15

1,迎え火 235

2,クラリネットクインテット 323

3,小田急線 423

4,DDT 515

5,電球 9

6,蒲田の孫請け工場 92

7,櫻の園 192

8,キャリア・ウォマン 299

9,雪の上の二本の轍 361

10,ハッピーヴァレイ 457

あとがき 539

こうなってて、

複雑な話に入っていくためのとっかかりとして、

東太郎の話が語られるんだけど、

生い立ちがどうで、何故かアメリカに来て、アメリカで働いて成功して、何故か日本に戻ったりしてたらしくて、何故か行方をくらましたっていうことがわかる。

①何故アメリカに来たか

②何故日本に戻ったか

③何故行方をくらましたか

この三点の謎が提示されて、(本編で明かされるんだろうなあ)ってのが期待される。

実際明かされるんですけどね。

それが、階級差の幼馴染みラブストーリーに絡まってくので、

というか、ネタバレなんですが、

再会するところが最高潮じゃないですか。

再開してどうなる!?ってとこがポイントで、

その反応から大きくはずれないじゃないですか。

再会してがっかりしたけどよく考えたらスキ!みたいにはならんでしょう。

再会してからが長いんですよ。

そこがもううまくいってるところだから、

キュンキュンするわけ。

初々しい感じがするのね。

いい年してるのに!40くらいだっけなあ。

40くらいでこんなの羨ましすぎる。

しかも成金男と、お嬢様ですわよ。

なんとも。

まあ、いくら楽しそうでも後は小説のおしまいに向かって下降するだけなんですけどね。

その分量が思いの外多くて、話を小説の中で全部終わらせる感じがあって、

とてもよかった。

ぽーんと放り投げて(あれはどうだったんだろう)と考えさせるタイプのじゃなくて、

じっくりじっくり終わらせていくという小説はあんまり読んだことがなかった。

小説を読んでる数が少ないというのもあるけれど。

思い出したのは『ガープの世界』の最後の、使徒行伝みたいなとこ。

勿論『本格小説』では脇役の生涯を追うことはないんだけども。

カルヴィーノプリンストンだかの特別講義で「終わり方」だけは書かなかったんだっけ?

書かなかったけど、全集には草稿から作った補遺が載ってて、

岩波文庫にも和田忠彦訳で収められてる。

ハーヴァード大学の講演でした。

エーコのも読みたい。

 

話がそれたけど、

本格小説』は面白かったです。

 

今は『私小説』を読んでいます。

『母の遺産』『続明暗』『本格小説』と読んできて、

やっと『私小説』です。

次は『高台にある家』かな。

そんでもっかい『母の遺産』を読むか、

三冊ある批評集を読むか。

辻邦生との書簡集はもう読んでる。

あと一冊くらいは小説出すかしら。

次は『翻訳小説』だ!

 

仕事の話、会う人にすると、大抵が辞めなよって言う。

びっくりするね。

社会は厳しいと言われてそういうもんだと思って働いてるのに。

「社会は厳しい」と「会社勤めは苦しい」は同じではないという単純なことかもしれない。

会社勤めは苦役ではないが、

社会人として(たまに)理不尽な目にも遭うよってことなんだろうか。

 

恋愛の話。

たぶん恋人と別れたと思う。

なんか、何度も別れ話が出てて、というか向こうが出してきて、

曖昧に向こうがグレーゾーンにしてくる。

「でも今度は本気みたい」ってやつ、な気がする。

私が馬鹿だからなのか、向こうが説明ベタなのか、なんかよくわからない理由だったし、

今でもわかってない。

何でフラレたんだろう。こちら側で思いつく理由を考えることで、こちら側の偏見が明らかになるという恐怖の作業。

性格の不一致というのはある。というか、合うときと合わないときの差が激しいし、どっちかしかない。

生活時間の不一致とかね。

不一致が手に取れるくらい多くなって、それを覆うほどのものがなかったってことなんですかねえ。

向こうが求めることに応えられなくなったというのもある。ママになってくれというのだ。ママ or 別れる。ここでいうママを明確には定義されたとは思わないけれど、全部許して愛せってことだったと思う。だいぶ前からの約束をドタキャンしても、それで謝罪しなくても、ひどいこと言って傷つけてもいいし、でも絶対に傷つけないで!みたいな。

傷つけないとか許すとかってのは、愛情関係では暗黙だとは思いますが、それを明文化して約束させるということに二の足を踏んだというのは、私の甲斐性の無さだろうか。

私の心が狭かったんだろうか。

一般的な答えっていうのはなくて、ケースバイケースで、しかもそのあと上手くいったかどうかも、主観的な判断でしかなくて、正解とか心が狭かったとかは一概には言えない、ということは頭ではわかってるんですけどねえ。

たしかに、急にいきなり突然、「ママになってくれ」といい年の恋人に言われて、ばっかじゃねえのと言うざっくばらんさも、黙って俺について来いという親分肌も持ち合わせなくて、もう困るくらいしかなかった。試されてたんだろうか。子供のやる「試し行動」みたいなことなんだろうなあ。

それにしては要求が大きすぎた。

恋人というよりは本当に子供のように、こちらを見ていないように思われたから、要求を二つ返事で飲むことはできなかった。

私の父が私に言ったことでよく覚えていることの一つに「親はいきなり親になるんじゃない。子どもが成長するにつれて、親も親になっていくんだ」というもの。

たしかに生まれた時から親は親で、子供からするとザ頼れる人なわけだけど、

親からしてみれば、親になった日っていうのは親じゃない日と地続きなのよね。

シームレスな生活の中に手がかかる初登場人物が生まれ落ちてくるわけで、それまでに培ったいろいろを駆使して、きっと楽々ではなく、なんとか育てるんだと思うんだけど、そしてそのうちにだんだんと所謂「親」らしいものになっていくいんだろうけど、

たぶん父はそういうことを中学生か高校生の私に車の中で言ったんだろうけど、

んー。

いい年して、ママになってくれとは、なんだったんだろうか。

「一生離さないでね」みたいなことだったんだろうか。そう聞こえなかったというのは、私が持つ恋人からの結婚像が柔軟じゃなかったということだろうか。単に可愛らしいプロポーズだったということだろうか。どうしてもそれが心理学的な云々にしか聞こえなかったのは、用語の問題なんだろうか、親のような責任をとれないという気持ちだったんだろうか。

わからないと言う事で、理解することを自分が(気づきながら)拒否している気がする。「どれだけお前を好きか、頼りにしているか言ってやろう」という気持ちだったのかもしれない。「お前はこちらの感情を疑っているようだが、こちらにとってお前は非常に大きな存在だ。たしかに至らぬ点はあるが、まだ未熟なのだ。大目に見て、愛してくれ。こちらの愛情や頼る気持ちを分かってくれ」という意味だったのかもしれない。非常識に耐えられず薄れる私の気持ちがそれを言わせていたのかもしれない。

自分の責任を多めに言うならば、私の器が小さいってことかしら。

恋人(元)は、お前がママになってくれないなら、いっそ甘え先を無くして、強くなるしかないと言う。でもさ、ゴミ箱をなくしたからってゴミが出ないわけじゃない。部屋のあちこちにゴミが溜まっていくだけだ。ゴミに埋れて暮らすようになるだけだ。そういう点では私はゴミに埋もれて暮らしているような気がする。愛情に飢えるフラストレーションというだけではなく、何かしらの感情で出来た宿便に囲まれて生きてると思う。

年をとったなあと思うのはフラストレーションのようなものがぐっと意識されたときに、(うん)と言ってあまりとらわれなくなったことと、そうやって我慢してるうちに寂しく死んでいくのかなっていう恐怖にはとらわれるとき。昔はストレスで云々してたぶん、将来的な恐さを感じる想像力はなかったけども、今は想像力の方が現実的に迫ってきてる。

宿便の中で一人で死ぬよりは、誰かのゴミ箱になったほうがマシなんじゃないかと、愛する相手ではなくて自分の孤独を中心に考えてるうちはたぶん結婚とか親とか愛情なんてことは遠いんだろうな。などと頭で考えて申し分のない答えを出しても出さなくても、結婚したり親になったりはできる。成人式に子供をつれてきた中学の同級生たちが、「労働とは何か」「愛情とは何か」「親になるとはどういうことか」なんてことは考えずとも(考えた末かもしれない)、働いて親らしくしてた。

考えて出した答えも文脈で変わるけど、結婚して子供ができたらそれは維持するために頑張るしかなくて、そっちのほうが論理とか道理よりも説得力があると思う。少なくとも、ふられたばかりの人よりは、既婚者の話の方が聞く価値があるだろう。

好きだとか好きじゃなくなったとかいう話でもなかった。

お前はいるのが当たり前になったと言った。当たり前と思うようになったら大事にしなくてもいいのかと思う。

ゴミ箱の喩えではなく、愛情の受け皿が小さいように思われることも不安だったのかもしれないと思うこともある。

愛情があってもその示し方を知らないという点では子供のような人だったと思う。よく言えば子供。悪く言えば人をゴミ箱としか思ってない。ということになるのかしら。

いずれにせよはっきりしているのは別れたという事実で、それは解釈次第というわけにはいかない。問題は、今後どうするかだ。自分はどうしたいのか。

転職のことを考えるときも同じ問にぶつかる。(嫌だ!)とは思うけれど、じゃあどうしたいかという具体的なことはない。いいなあという他人の生活もほどほどの羨望でしかない。

ああ、でも結婚はしてみたいです。挨拶に行ったり、親同士の顔合わせしたり、結婚式の手配のもろもろをしたりしてみたいってのも含めて。信頼できるパートナーと生きていくというのはいくらか希望的で心強いだろうなあ。楽しいだろうなあ。

結婚したいことと、結婚することは違うことなので、私は結婚はとてもできないんじゃないかなあと思う。別れたばかりでこんなことを考えるからなんだろうけど、とてもじゃないが誰にも出会わずに終わるだろうなんて思っちゃう。

んー、やっぱり昨日の今日だから、思い出して、あーすればよかった、こう言えばよかったというのは尽きませんね。あのときは本当に助かったって言いたいとか、それなのにあんなことを言ってしまったとか、誤解されたまま嫌な記憶として残るのは嫌だとか、後の祭りなんだけどさ。

ありがたかったのは本当だけど、結局は性格が合わなくなったんだから仕方ないんだ。このままグレーゾーンを続けても、先に結婚はなくて、ただの長い別れ話でしかない。延長しても読まない本は読まない。

結婚できるひとってなんでできるんだろか。不思議だ。

恋人ができる人にも昔は同じことを不思議がってた。

付き合った人の数が多いというのは、それだけ上手くいかなかった人間関係の数でもあるから、自慢にならないというのをツイッターで読んだ。密接な人間関係がうまくいかないような人間なのだという結論は性急で、あくまでも二人の問題なのだけれどね。メントスもコーラも普通だけど、一緒に食べてはいけない。

別れ話が長かったせいか、まだぼんやり残っているような気もするし、やっと終わったような気もする。でもやっぱり、自分の人生がつまらなくなったようにしか思えない。自分の人生に期待する分が減ったというか。人任せにすることではないけども。まあ、昨日の今日だからというのもあるでしょう。

でもやっぱり、まだどう考えていいかわからない。服喪期間がちゃんと現れるだろうか。なんとなくずっと別れていないような感じだけ残ってしまったら嫌だ。