語源なんて関係ないんとちゃいまっか。
多和田葉子さんの講演会に行ってきました。
日常の言語観察と詩の言語という題でしたが、
例年通りけっこうずれてってるように思われました。
多和田さんのエッセイや講演は、
言語が国家を前提とするようなイデオロギーを内包するものという点に反抗するような視点から述べられることが多いように思われますが、
日本語やドイツ語が一枚岩のように思われる話をしてるように思われて、
変な感じでした。
人権という語と、ヒューマンライツでは、
人という漢字の語源が、生け贄を指しているという白川静の学説に依るならば、
生け贄に人権なんて無いんだから、人権という言葉の理解が欧米と日本とでは違ってくるのではなかろうかとか、
自由という言葉はフリーダムの意味だけども、
これは明治期にオランダ語から訳されたもので、
仏教用語である自由という言葉をもってきたものなのだけど、
フリーダムはプラスの意味、仏教用語である自由はマイナスの意味であるからして、
この意味が違ってくるのではなかろうかとか、
を仰ってらしたんですが、
生け贄であるとか仏教用語であるという意味をとっぱらって普段から人権やら自由やらを言ってるならば、
語源なんて関係ないんとちゃいまっか。
それに、
例えば書店員と役者と法律家と映像翻訳会社社長とで、意味する人権の意味は変わってくるんじゃないでしょうか。
ドイツも一枚岩ではないし日本も一枚岩ではないし、
もしかしたらドイツでも日本でも、人権という言葉の明確な定義がけっこう違ったりするんじゃなかろうか。
それを一概に日本語とドイツ語とで比べても、
ぴったり合うこともないわいな。
そしたら挨拶からしてそうじゃないですか。
「おはよう」と「グッモーニン」では、
「早いですね」と「良い朝ですね」では意味が違って、
でも、朝に会った人に言うことという点では一緒で、
しかも、本当に早いと思ってなくてもつまり11時半とかでも、さらには職場では時間なんぞ関係なしに言ってる場合もあって、
結局のところ時間的にどうのこうのではなくて、
その日会った第一声の挨拶という機能が大事なんであってとなると、
語源的な意味がどうであれ、
同じじゃないかしらとか、
思ってしまうわけですよ。
日本もドイツも一枚岩では無いという当たり前のことは多和田さんはもう言うまでもないことだとは思うんでわざわざ話題にしないということも考えられますが、
東京生まれ東京育ちの超一流大学卒業だから、方言を体験してないからそういう発言になってるんじゃないかなーと思うわけであります。
これが大江健三郎のように四国の山奥生まれなら、
方言が話題にのぼるんでしょうが。
母語についても、
イデオロギーがあるんではないかという発言を受けて以降、
母語という言葉を使いにくくなったと仰ってらしたけども、
というのは、
母の言葉はフランス語だけど、自分が使いやすいのは英語だとか言う場合、
自分にとっての母語は一体なんじゃろかという話があったってことなんだけど、
例えばコロンビア大学に留学して初めて図書館学に出逢って日本で図書館学の教授になりましたというとき、
もし日本に図書館学が広まってなかった場合、適切な訳語は全く無いようなときは、
その学問における母語は英語ということになるでしょうけども、
しかし大学で手続きをしたり一般教養とか語学を教えるときには標準語を使って、
しかしまた両親や祖父母と電話で話すときはドギツイ方言だったりするってことは、
容易に考えられる場合、
家族と話すのが母語だというとロマン主義的な母語のイデオロギーだと言われそうだし、
商売道具の専門用語である英語が母語かとも言えず、
じゃあ普段使いの標準語が母語かってええと、母の言葉は方言だしと、
それに時代もあって祖父母ほどに方言を使いこなせるわけでもなく、
やはり育った環境や付き合う階層に相応しい言葉遣いをしてるとなると、
一概に母語なんてことも言えなくなるし、
とはいえちゃんと条件を決めて分類してくとまた、最終的には殆ど一人1パターンなんてことにもなりかねない。
と思っちゃうからこそ、
ドイツ語が日本語がという比較が単純すぎやしませんかと言いたくなった。
中心志向が強く、方言や地方の文学には興味を示さなかったとあったけども、
これは多和田さんにも言えるんじゃないだろうか。
古語を言語の異化として用いることを書いてたように思うけども、
方言に向かわないあたりが、なんとも中心志向な気がしました。
『尼僧とキューピッドの弓』では英語由来の言葉を使わないで書いたと仰ってらしたけども、
なんで英語由来の外来語をそんな継子扱いしたんだろうか。
いっそドイツ語由来、漢語由来も外して萬世一系正調日本語でございという嫡子扱いをして、
ナショナリストと呼ばれるのもおもしろいんじゃないかしら。
祝詞みたいな長編小説なんてすごく読みにくいか、
簡単なことしか書けないか。