感想

『悲しみの中にいる、あなたへの処方箋』という本を読みました。

配偶者に先立たれた苦しみから立ち直った著者による、「悲嘆の作業」についての概説書。

なかなかおもしろかったです。

 

文庫化されててそれをけっこう前に買ってましたが、

まだ読むべきタイミングではないと寝かせておきました。

今だ!と思ったのは、ふられたからです。

きっつーいから死んじゃえと思って読み始めました。

遺族の方々の苦しみを最小化する自死を検討しながら。

 

村上春樹の『ノルウェイの森』のラスト近く、漁師に「俺も母ちゃん亡くした時は泣いたよ」って言われて(それがどうした)と突き放すようなシーンがあって、

冷たいよ!と印象に残りました。

でもフラれる度にそのシーンを思い出しては(あなたも辛いでしょうが、私に比べればまだまだ)と主観的に処理することを許せるようになりました。

勿論、他人の悲しみを見下したことをするわけではなく、単にそう思うだけ。

そういう悲嘆の作業だったのかもしれません。

 

本には悲嘆からどうやって立ち直るかと、悲嘆はどういう具体例があるか、が書かれています。

実際に悲嘆の最中にこれを読んでフムフムと参考にするのは難しいでしょうから、

備えとして読んでおく方がいいかと思いますし、

悲嘆の最中の方には、自分の苦しみと似た境遇を読むことで悲嘆が(いくらかは)対象化されて楽になるかもしれません。

「そうだ、これで苦しむのは妥当なんだ」と思ってしまう私は、

子供や高齢者が葬式から締め出されてしまうケースを紹介していて、

実際に似たような経験があり、ずっと消化しきれずに残る割に、何故消化しきれないかが納得できてなかったものが、

ひっかかっていいものなんだと知って少し楽になりました。

(これはホントは逆で、そういう人がいるというケースから理論化ないしは一般化したのであって、そう感じる人が多いから理論的に認められた未消化ではないんですけどね)

 

あと、私はうつ病なのかなーと思いました。

認知の歪みがあったり、死ぬことばかり考えてたりとか、あてはまるなーと思いました。

でもさ、みんな死にたいって思ってんじゃないの?

なにもおおっぴらにSNSに書かないくらいでさ、ほんとは事故に遭わないかなとか、排水口掃除してからぬるま湯の中で一本行くかとか、思ってると思うんだけど。

それも認知のゆがみなんでしょうか。

あの人は私を嗤っているとか、正社員のつもりが騙されてバイトにされた上に、時給900円だなんて生き残れない馬鹿だし、そんなんじゃ周囲を不幸にするだけだし、今後どんどん周りに迷惑かけてくだけだから今のうちに終わらせたほうがいいんじゃないのって、

みんな思ってんじゃないの?

いきなり電話かけてきて仕事の愚痴を言いたい放題言うくせに、こっちが辛くて電話かけてみたら着信拒否されてるとかクズすぎるからもういいでしょとか。

と考えていくと、ふられちゃって別に希望もないし、したいこともなくなったし、経済効果もないし、もういいかなと思ってみんな毎日過ごしてるだろうからって先延ばしにしてるだけでね。

それって認知の歪みなんですかね。

ものは言いようってことだとすると、色んな生き方がありますよって言えるし、

とりあえずカウンセリング受けてみたいです。

で鬱なら鬱で治したいし、鬱じゃなくてもなんとかしたい。

本人のやる気次第みたいですけどね。

例えばその、悲嘆の最中にもこんなんで病院が行けるかと思ってしまうけど、

行った方がまだ楽になるし、そういうのでも行く時代ですよ、というのは知っていてもいいことだと思います。

翻訳業界でこれから何が大事って、消費者の教育だということにけっこうオチが行きがちだったりしますが、

悲嘆もまた、この場合は患者かもしれないけど、必要とする人にとって有意義になる情報が届くようなしくみってどうしたら良いんですかね。

 

看取る瞬間にどのように立ち会ったかで、悲嘆も変わってくるみたいですよ。

「ありがとう」って最後の言葉があったりすると、悲嘆が苦しくても(そりゃあ苦しいでしょう)それでも少なくともそういう気持ちで居てくれたというすがれるような言葉があるのは楽でしょうね。

読んでる間によく思い出したのが『お葬式』って伊丹十三の映画で、

菅井きんの「一緒に死ぬ、というとおかしいけれど、そういう経験をしたかった」という台詞です。

死ぬのは一人だけど、夫の死ぬ瞬間を二人で迎えたかったということでした。

そのシーンの発展形が『大病人』なんですが、残念ながらこっちはつまらない。

三國連太郎じゃシリアス過ぎたのかもしれません。

伊丹十三が悲嘆を主題に絞った映画で大ヒットさせてくれたらよかったのに。

映画にしなくたって、この本の著者は講演してるし雑誌のインタビューにはこたえるし、こうして文庫化までされて死にたくている人にまで届いてるから

伊丹十三の映画が必要ではないんだけどね。

 

あ、そういう映画ありましたね。

佐々木蔵之介永作博美主演の、妻を亡くした男がエッセイブログを書籍化するために執筆してると妻の霊が夫にだけ見えて喋れてってできるという、これってグリーフワークの寓話化でしょうか。

ファンタジー化かな。

悲嘆がちょっと笑いと感動にまぶされすぎててぼやけてる印象が、予告編から感じられたので、観なくていいかなーと思っちゃいましたが、

私をふったひとに誘われたら行っちゃいますね。

 

本では「もう一度会いたい」「ひと目でいいから」と他人事なのに落ち込むくらい切実な思いが溢れてて、

(待てよ、フラれたとはいえ生きてるんだし、会いたいぞ)と一念発起して

気まずくなければ、と誘ってみたら意外に快諾で、

うーんでもお友達でいましょうなんだよなあという苦しみはありつつも、

大好きな死者に会えるのは幸甚の至りでした。

生きてたら会える可能性があるし、会ってくれるんだよなあ、フラレてんすけどね、希望はないんだもんな、死のうと複雑化させてました。

 

悲嘆の中にいるときは「丁寧に生きる」のがいいそうです。

あと長引かせるのも良くないとか。

 

本ではこういうケースがあって、こういうことをするといいとかあってけっこう実践的に書かれてますが、

もっと理論的なのが読みたくなりました。

そして自分で自分を治療できたらいいなと思います。

さらにはいつか友達が苦しんでるときに力になれたらと思うので、

また本買っちゃいそう。