車寅次郎は二度死ぬ

観ました『おとうと』と『おとうと』

幸田文の原作の『おとうと』は市川崑監督作品で1960年公開、

それを元にした『おとうと』は山田洋次監督作品で2010年公開。

 

作家の父が迎えた後妻が両手両足とリウマチであるために、家事一切を引受ざるを得ない姉のゲンは、素行が悪い三つ下の弟である碧郎にとって母代わりでもある。碧郎は素行が悪く家族に面倒をかけ、その末に結核に罹り死ぬ。

という話。

姉弟は二人とも学生で、本編に出てきたかは定かではないが、予告では3つ違いであるらしい。

岸恵子を「不美人」と弟は評すがそうなんでしょうか。

とっても美人に見えるんですが、『男はつらいよ』でもカマキリとかおちょくられてたんで、一般的な美人ではないんでしょうか。

映画は、ウィキペディアによれば「銀残し」という手法を用いて撮影だか現像だかされてるために、独特の映像となっています。予告を見ていただけば一目瞭然、百聞は一見に如かずなのですが、コントラストが強く明暗が濃くというよりはむしろ「ドギツく」て、しかも色彩がかなり控えめ。見ていてなんだか気が沈んでくるようなトーンです。映像の色彩は薄めですが、だからこそなのか桜はとても鮮やかに見えました。

しかも内容ではご災厄の田中絹代がまあ、暗い暗い。ソーロンサムアイクッドクライ(寂しくって気落ちする)。拝み屋でキリスト気狂いで、四肢が不自由なもんだから厚塗りしたような醜い太り方でそれがまたこちらの神経を逆撫でしてくるような小言の山で、

見ているだけでどんどん気が沈みます。

この田中絹代が見所。

こんなむかつくばあさんは小津安二郎に出てくる杉村春子以来でした。

最近の映画ではこういう小言ばあさんって何に出てたでしょうか。

 

何故この映画を見たかというと、山田洋次が『おとうと』を撮ってるからです。

オマージュということで、どのくらい市川崑が入ってるのかしらんと興味本位でしたが、

市川崑の方の大変じゃのうという他人事さに比べて、

山田洋次のは大変興味深く観られました。

と言ってもストーリー自体は単純なものです。

 

娘の結婚式をめちゃくちゃにした叔父は昔から家族の厄介者だが、母代わりとして面倒を見てきた母(姉)だけは弟である叔父を見捨てなかった。そんな母が縁を切ると言うと叔父は姿を消した。再び連絡が来たときはもうホスピスに入れられて死を待つばかりとなっていた。娘と母は精一杯の看病をし、叔父の死を看取る。

そんな話。

共通点は、厄介者の弟と親代わりの姉、

恋人を作らない姉、

弟は最後に死ぬ、

違う点は、年齢と娘。

1960年版では姉弟の話でしたが、

2010年版は姉弟の話+母が娘を嫁にやる話。

長編て2つの話を絡ませて一本の話にすると落ち着きがいいように思います。

姉弟の話一本だけだで長編にするとなると、エピソード集にせざるを得ず、物語の牽引力がちょっと弱い気がします。探偵小説とかミステリーで言うところの謎みたいな形なのか、エピソード集にするにしてもメリハリがあるからなのか、一本の話だけでもってくなら30分くらいで済むと思います。『アリエッティ』も『マーニー』もそうで、前者は小人か人間のどちらかが出て行くしかないし、後者はあの子は幻覚と幽霊のどっち?と、物語がどう転ぶかではなくて容易に想定される二択のどっちになるのかなーと思ってしまうからで、結果違うにせよ二択のどっちかにせよ、とりあえず二択に絞らせてるのはまずいよねってそれは話が一元的だからだよねってことで、

『おとうと』の話。

なんでこんなに山田洋次のと市川崑のが違うかというと、

山田洋次が原案としかしていないからとか、山田洋次は原作を自由に脚色するタイプの監督だとか、山田洋次が原作を読み違えていたからだとかではなく、

男はつらいよ』にケリをつけたことと小津回帰への前振りだったのではないかと思います。

 

男はつらいよ』が渥美清の死でもって終わらざるを得なかった直後に、山田洋次は『虹をつかむ男』という映画を撮っています。

これは「釣りバカ日誌」シリーズで主演の西田敏行が主役で、さらには博、さくら、満男も出ています。しかも二本撮られています。ここで西田敏行が演じる姿は寅さんの亜流とみなして良いでしょう。おそらくはシリーズ化を目論んで二本撮ったものの、評判良くなく、打ち切ったのではないでしょうか。結局のところ「寅さん風」の映画が見たいわけではなくて「寅さん」そのものが見たいので、いくら山田洋次が似たものを撮ろうとも、誰も満足するわけがないのです。

男はつらいよ」シリーズで描かれた車寅次郎は渥美清と不可分のキャラクターでした。渥美清だから作ることができた人物であり、おいちゃんのように他の役者で演じられるものではありません。というのは、渥美清が演じた他の映画を見れば明らかです。威勢の良さや明るさ、調子の良さ等は「喜劇 〇〇列車」シリーズや『爬虫類』『つむじ風』『喜劇 男は度胸』等で見ることができます。寅さんでお馴染みの「アリア」のシーンさえあります。

とは言うものの、渥美清の軽演劇出身の芸だけが寅さんでないことは『男はつらいよ』を撮るまでの山田洋次監督作品を見れば分かります。寅さんを撮る前の山田洋次にとって、ハナ肇渥美清的ポジションだったのです。『馬鹿まるだし』『いいかげん馬鹿』『馬鹿が戦車でやって来る』『なつかしい風来坊』『運が良けりゃ』『喜劇 一発勝負』『ハナ肇の一発大冒険』『喜劇 一発大必勝』と山田洋次の喜劇に主演し続けます。この頃はクレージーキャッツによるシリーズ映画が大当たりしていた年で、松竹でもその恩恵に肖ろうとクレージーのメンバーを起用していたのではないでしょうか。しかし飽きがきたのか見切りをつけたのか契約が切れたのか、ハナ肇を主演に迎えて映画を制作しながらも、坂本九なべおさみを主演に喜劇映画を撮っております。その試行錯誤の末に山田洋次渥美清のマリアージュに至るんですねー。

ご存知の通り、山田洋次渥美清をいきなり主演に迎えたわけではなく(というかそもそも監督の意向ではなく松竹の意向も大いにあったでしょうが)、元々は「泣いてたまるか」というTVシリーズがありました。これは同じ嗜好の単発ドラマのシリーズで、主演になる人が数人いて、そのなかの渥美清のものが後にソフト化されるときに『渥美清泣いてたまるか』になったんですね。山田洋次は脚本を担当する一人でした。『泣いてたまるか』の最終回が「男はつらい」だったんですねー。

この話はトラック運転手(渥美)が偶然乗せた女の子をロードサイドの定食屋のウェイトレスにして、異性として気にしてるんだけど照れくさくて言い出せなくて、でも女の子の方も惚れてるんだけども、けっきょく二人の想いはかち合わずに「男ってえのはつらいものよ」という感じで終わるわけですが、なんと前田吟が『タンポポ』で言うところのケンワタナベで出演してるんですね。前田吟が此頃どんなポジションの役者だったのか興味深いです。

その『泣いてたまるか』の後に『男はつらいよ』のTVシリーズが始まるわけです。原『男はつらいよ』ですね。こちらは12回くらいのシリーズものでした。現存している映像は第一回と最終回のものだけで、特典DVDで観られます。違法アップロードでは見ていけませんところです。この初回と最終回を見て誰もが驚くことでしょうが、初回と最終回で十分に映画版の寅さんの構造を成しているんですね。やってくる、振られて去るというもの。最終回では既に振られているのでラスいちで告白して振られたんでしょうが。じゃあその間いったい寅は何してたんでしょうか。これは是非ともTV版の脚本を読まねばなりませんが、松竹の資料館にいけば拝見できるんでしょうか。エニウェイ、いずれにせよ、終わってしまった原『男はつらいよ』ですが、有名な話としてこの最終回で寅はハブに噛まれて死にます。身も蓋もない終わり方ですが、この身も蓋もなさが功を奏したのでしょう、抗議があって寅を死なすなとして、映画化に至るわけですが、そう考えると、このハブでの死は山田洋次が抗議を狙ったオチにしたんではないでしょうか。山田洋次ハナ肇で作ってきた喜劇映画の発展形として、それを見事に体現させる役者であり物語として『男はつらいよ』をドラマだけにしておくのは惜しいと計算し、ただの映画化ではなく抗議という人気評判の鳴り物入りで宣伝するために一度殺したのではないでしょうか。

そしてやっと『男はつらいよ』は映画化されます。今ではこの映画は日本では最長の映画シリーズ、同じ主人公では恐らく世界最長の映画として知られているでしょうが、映画化されるにあたって、繰り返し作ることが可能であると松竹側もみたのでしょう、第3作、第4作を山田洋次以外の人物に監督させているのです。おそらく若手の腕試しにしたのではないでしょうか。だからこそ、寅次郎の服装がいまいち揃っていません。物語上の流れからしても、映画では全5作で完結させるつもりでいたと思います。ところがやはり人気でもあり、帰ってきて惚れてまた出て行くという構造がホウボウで反復可能であったことと、「ディスカバージャパン」という日本再発見の旅物としてもっと長く続けられるということで6作以降を作ることになったのではないでしょうか。

何故6作以降も続けることが可能になったのかというと、これは山田洋次渥美清のマリアージュの結果ですが、それが山田洋次がこれまで作ってきた映画にも関係しています。山田洋次は『二階の他人』というコメディ映画で監督デビューしました。その次は『下町の太陽』という倍賞千恵子を主演に据えた歌ありの青春ものです。こう言っちゃあなんですが、ぱっとしません。コメディでありながらテーマや社会問題を抱えているような、問題提起を含んだような映画です。山田洋次が今知られている山田洋次になったのは『馬鹿まるだし』以降です。この映画は『庭にひともと白木蓮』という小説を原作としていますが、その実、中身は『無法松の一生』のパロディです。

『無法松の一生』とは、そもそもは九州の地方文芸同人誌に乗った小説を中央文壇が評価し、それが講談になりさらには伊丹万作が脚色して映画化し、戦後には三船敏郎が主演でも映画化されています。ストーリーは、学が無く荒っぽくて喧嘩っ早いが情に厚く硬派な松五郎が軍人の後家さんに惚れながらも想いを隠し通して孤独死するというものです。これがどうにも男心を擽ったのかそれとも講談的であるのか、とにかく受けるわけです。それを山田洋次はパロディにしました。

『馬鹿まるだし』は、どこかからふらりとやってきた男(荒っぽいが情に厚い)が住職に気に入られて寺男をすることになるが、この家の後家さんに惚れた気持ちを打ち明けられず、事件に巻き込まれて失明して死ぬという話で、ちゃんとネタばらしとして劇中劇で『無法松の一生』を見せるというのがニクイ。しかも劇は『無法松の一生』の中で松五郎が観られなかったという設定を活かしてネタばらしにしてるところが著しくニクイ。

やっとコメディを当てた山田洋次ハナ肇と組んでコメディを連発するわけですが、こちらのストーリーラインはけっこう様々で、模索していたのではないでしょうか。モテナイ系コメディとしてはハナ肇で作る一方で、後の『家族』や『同胞』または『幸福の黄色いハンカチ』に連なる真面目な映画として『愛の讃歌』も作っています。模索を続け、主演まで変える中でTVシリーズでヒットを出したのは渥美清が主演の、フーテンの男でした。これが『無法松の一生』を踏まえた『馬鹿まるだし』の渥美清版という『男はつらいよ』という形に結晶化したわけですね。ああ長かった。

男はつらいよ』は1969年から続き、渥美清の死によって中断し、シリーズは未完のまま終わりますが、その間、一貫して寅次郎は「無法松」ではありませんでした。というか、変わらざるを得なかったのです。いくら当たる設定でバリエーションが効く、時代のスターだって出せるとなっても、流行り廃りと無関係にはいられません。『男はつらいよ』を何本か見た方はご存知でしょうが、初期の寅次郎は本当に厄介者です。鼻つまみ、邪魔者。壊し屋。何か喋っては博にぷぷぷと笑われ、無教養で猪突猛進なために愛情からの行動も最後には喧嘩になってしまう人物として造形されています。これがですよ、これが、満男が社会人になって靴屋で働いてるときにだ、帰ってきて、商売についての講釈を宣うと、もうとらやの皆さん「いやー寅ちゃんはさすがだね」なんて尊敬の眼差しになるわけですよ、世間ずれしてないからとか浮世離れしてるからこそかえって物の道理に通じているような、そんな扱われ方をしているわけですよ。金が無くて電車も乗れないような商売をしている男が偉そうに講釈なんか垂れられないですよ。でもそれが許される映画にしてしまってるんですね。というのも、途中で『男はつらいよ』が方向転換したからなんですね。渥美清の高齢化と満男の年齢及び役者としての成長、そしてだんだんの不人気が招いた結果でしょう。恋をするのは満男となり寅はその良きアドバイザーとして、満男の尊敬に共感できるように寅の権威化、あるいは寅の権威化のための満男への共感とも考えられるけども。「無法松」のはずがホーリーな存在になってしまった。日本人の心のふるさと、日本人の良さ、なんかと共に語られるような右寄りのイデオロギーにどっぷりそまった『男はつらいよ』にしてしまったんですね。それはシリーズを打ち切らずに、最後まで続けるためにも苦肉の策ではなかったかと思います。寅は旅に出っぱなし、満男は泉ちゃんと半端なままでは終わらせられなかったというのが、「寅さん」への愛情だったのかもしれません。それが渥美清の死によって本当に結論見ることが叶わなくなってしまった現在ですが、物語構造を変えてまで継続させた「寅さん」という山田版「無法松」をどうにかして完結させようと作ったのが『おとうと』なのではないでしょうか。

当たり前のように、山田版「無法松」は渥美清でなければ演じられないのですから、『男はつらいよ』の続編を撮ったところで渥美清のモノマネになってしまいますし、それが失敗することは必然ですし、失敗作ではシリーズに泥を塗ることになってしまいます。しかしながら、「無法松」ですから死ななければ、生みの親である山田洋次が引導を渡さなければ寅次郎は完結しません。『男はつらいよ』ではないもので、しかし満男を結婚させ、寅を幸せに成仏させること、これが山田洋次の課題だったといえるでしょう。「無法松」という伝統に連なる人物の死に並列させられる結婚として山田洋次が選んだのは小津安二郎でした。『晩春』や『秋刀魚の味』『彼岸花』(結婚式から始まる!)『お早う』からの引用がその証拠となります。

『おとうと』で描かれる弟は、寅さんと職業は違いますが、責任感のある大人ではありません。姪の結婚披露宴に参加して、飲むなと言われた酒を目を盗んで飲み、おだてられて更に酒を飲んだ挙句に、周囲の迷惑を考えずに頼まれもしないスピーチをして顰蹙を買うが、それも全て愛情からしてることという、どうにも迷惑な人。これは山田版「無法松」である初期の「寅さん」が年をとって満男の結婚式に出たら、という想像を禁じえません。満男の結婚を小津で、そして山田版「無法松」は、市川崑の『おとうと』という形を借りて姉と弟と転換させ、甥の満男を姪に転換させることで、有り得なかったが作らないわけにいかなかった『男はつらいよ』の最終話を作ったのでした。

無法松は恋に焦がれ、その炎を消すためにか殆ど自殺のように凍死を選びますが、山田洋次は今度こそ映画化も続編も話題になる抗議もない形で、誰もが納得する形で国民的映画キャラクターである「寅」に引導を渡すために、そして何度も帰ってきては優しく迎えてくれ喧嘩して甘えられる「さくら」に看取らせるために、その愛情を可視化してリボンでつなぐというクドささえも引用してまで愛情を込めて「無法松の一生」の幕を閉じさせました。不世出の喜劇俳優と共に山田洋次が映画監督として40年間にわたって描き続けた「車寅次郎の一生」全編の終わりであります。

 

あー、長かった。

書きたいこと書いた。

『おとうと』での小津オマージュ(つっぷして泣く右横に赤いケトル!)が次の『東京家族』につながるわけですが、

東京家族』は山田洋次の真面目系映画を見てたら面白く見られるのでしょうか。

山田洋次は(喜劇においては)強引に言うと「無法松」のパロディをつくり続けてきた監督という理解をしてるので、

『家族はつらいよ』はもう戻りに戻って『二階の他人』になってしまうんじゃないかと危惧してしまって期待してないけども、

幸福の黄色いハンカチ』は面白いから、でもあれも元ネタあるのか、うーん、やっぱり期待しないで見るのがいいけども、

一番良いのは未完成になることだと思います。

 

『おとうと』で冒頭が結婚式で関係がわかるという『悪い奴ほどよく眠る』手法を撮ったのか『彼岸花』だったのかわかりませんが、

結婚してコミュニケーションが足りないからって別れるとか、

就職と同時に結婚したわけでもなし、忙しいとか話し合わない性格だとか金払いが厳格とか、交際してる段階でわかりそうなもんだけどね。

どうしてもバツイチにしたかったのね、としか思えない。しかしもっと突っ込みようのない形にできたんじゃなかろうか。