よくわかってない人として、私は長嶋有の小説を求めてるんでしょうか。

長嶋有の『猛スピードで母は』を読みました。

サイドカーに犬」と「猛スピードで母は」の二篇が収録された短篇集。

 

サイドカーに犬」は、夏休み、小学6年くらいの女の子が主人公。

母が出て行って、父と主人公の女の子(薫)と弟が残される。食べ物もなくていると、洋子さんという女の人がやってきて、家のことをしてくれる。洋子さんはかっこいい自転車に乗っている。父は男の友達を連れてきて家で遊ぶようになった。薫は洋子さんと買い物に行ったり、山口百恵の家を見に行ったりした。そのうち母が帰ってきて、泣いて洋子さんを追い返した。父は悪い商売をしていたらしくつかまった。一度、近くの街で洋子さんの乗っていた自転車を見かけ、意外と近くに住んでいたことを知った。そんなことを、もう当時の洋子さんの年齢をとうに越したときに、弟と語り合って思い出す話。

映画化されるほどなのだけども、あんまりぐっとこなかった。

なんでだろう。

 

「猛スピードで母は」は、北海道を舞台に、離婚して母と息子(慎)で暮らす親子の話。

トドが鳴いたり、母に恋人ができたり、祖母がなくなったり、いじめられたりする。

一人称小説ではないのだけど、慎の目線から語られる。

こっちはぐっときました。

なんでだろう。

「うるかす」という言葉が出てきた。米を研いで、そのあとすぐに炊飯器で炊くのではなく、少し水をはったまま置いておく、あれを「うるかす」と方言で言うんですと。

私の郷里である福島でも「うるかす」という言葉を使いますが、炊飯の流れでは使うかしら。

標準語では辞書があるから、というか定義することが学問やら体系になってもいるけども、方言はもっとナマに生活を構成していて、

それだけに殆ど使う人によって定義が違うのが現実的で、

定義に従ってコミュニケーションや現実を作るというよりは、

その時々の方言遣いによって世界が構築されていく。

だから、標準語については規定的にこう使うべきと言うことができるけども、

方言については記述的に論じるしかないのではないかと思う。

何が言いたいかというと、「猛スピードで母は」での「うるかす」を正しいとか間違ってるとかは言えなくて、ただそういう使い方もあるのだ、とまでしか言えないのが誠実な方言への態度だと思う、ということ。

うるかすの「うる」は「うるおす」「うるおい」などと同じ言葉から発生しているとかんがえるのが妥当でしょう。

と思って辞書を引くと、「うる」は熟すというような意味なんですと。

麗しのサブリナの「うるわし」も同じ語根からでた言葉のようです。

丸谷才一の「横しぐれ」で、30〜40代の女性を褒めて形容するときに「腰もとに水気たっぷりの」というような表現を用いられていたけども、やっぱり水分が多いのは麗しいのでしょうか。

綾瀬はるかのドラマであった干物女という表現も日本語として当然の言い方なんですなあ。

 

ちなみに、村上春樹は『1Q84』で「米を洗う」と書いていてびっくりでした。

 

次は何を読もう。

母に大江健三郎とかを勧めると「そんな難しいのは読みたくない」と言われたけれど、

その意味がすごくわかるようになった。

勉強じゃなくて楽しみのために読みたいという時、安部公房とか読まないよね。

楽しくない。

たぶんそういうのを楽しむために読む人がいて、そういう人が学者になるんだと思う。

と思ってたけど、そうでもない人もいて、

わたしのドイツ語の恩師は『新宿鮫』とか時代小説を読んでいて、「先生ってドイツ文学以外も読むんですね」と言ったら「そんな休みのときまで読んでらんないよ」とおっしゃられたのが衝撃だった。

もちろん、絵が好きと言っても、中村一美みたいなむつかしいのが好きな人もいれば、326みたいなイラストが好きな人もいるでしょう。

音楽が好きな人で、クセナキスばかり聴いてる人もいれば、鉄道唱歌あたりが好きな人もいるでしょう。

数年前にノーベル賞をとった莫言の長編小説が平凡社ライブラリーから出てて、あまりの厚さと濃さに驚いた。

作家としての代表作らしく、イメージとしては村上春樹で言うところの『世界の終わりとハードボイルドワンダーランド』だと思う。

まあ、すごく凝ってるんですよ。こってりしてる。

マジックリアリズムと言っていいのかもしれないけども、まあ長いし、複雑で猥雑。

こういうのを読むのはどういう人なんだろうと初めて不思議に思った。

面白そうだけど、惹かれるけども、たぶん読む元気が出ないだろうなあと思う。

たぶん、難しいっていうよりは、凝り過ぎててよくわからないってことになると思う。

読んでみたら実際は面白いんだろうとも思う。

だから気力の問題よね。

でも、気力を振り絞って、とまでは行かなくとも、そんなことせずに楽しみたいというのが私の怠惰な性格なのだなあ。

大罪の一つ。

長嶋有のもきっと、読む人が読むとすごい仕掛けがしてあるのだと思う。

実は〇〇は死んでいたとか、あの靴下は異界からのメッセージだとか、そういう読解がされるでしょう。

ああ、次何読もう。

買っといた『祝福』かな。

 

明らかに現実逃避としての読書だと思う。

映画と違って、小説を読んでる間は他のことができないから。

映画を見てる時ははっさくを向いたり、ベースを弾いたりできる。

 

この前、ハローワークに初めて行って、使い方を聞こうと自分の状況を話したら、ものすごく切羽詰まっているみたいだけど、もっと自分を大事にして、大切な人と相談して、慌てずによく考えてと諭された。

自分としてはもっと飄々とのんき坊主の極楽とんぼだと思っているのだけど、そしてそれがもうたまらなく嫌なところでもあるのだけど、そう見えず、もっと現実的な自分の状況が溢れ出ていたというのが何だか恥ずかしいような、安心したような気がした。

自分が焦っていることに安心したというのは矛盾しているみたいだけどちゃんと焦ってるのかと、状況の大変さが身に沁みているのかとほっとした。

そんなんでいいのか。

 

多和田葉子の視点を、外国人という視点から文化を異化すると前に書いたけども、

長嶋有の場合はこどもという視点から大人の世界を異化しているのだと思いました。

よくわかってないまま状況に放り投げられて、子供が触れられる一面からしか理解できない。

こどもじゃなくても、なんだかよくわかってない人として主人公は設定されてると思う。

よくわかってない人として、私は長嶋有の小説を求めてるんでしょうか。

自分のこともわからない。