みんな本ってどうしてるんでしょうか。
ずっと研究を言い訳にサボってた片付けなるものをやっとしてみたら、まあどんどんと散らかってくよね。
片付け上手なら散らかさずにできるのかもしれないけども、片付けベタだからどんどん散らかっていく。
片付けてるのか散らかしてるのかわからない。
ごしゃっとしまってた(とすら言えない)ものたちを、いるいらないの二項対立で仕分けしていくと、狭い部屋にさらに場所が必要になって、いらないモノのほうが多くて狭くなってきてる。
いらないものはもう捨てればいいんだけども、いるものとして残ったものたちは、どうしまえば狭い部屋が持続可能になるのか、そこが問題となっている。
厳密に言えば狭くない、と思っている。部屋自体の広さは、普通くらいだと思う。
問題はモノの多さである。モノとは主に本なのよ。
本は一度に一冊しか、バカボンのパパスタイルでなければ読めなくて、そうなると基本的に読まない本ばかり置いているということになってしまうのだけど、もしかしたらまたよむかもしれないとか、読みたくて買っておいたとか、そういうことが本を捨てさせなく、部屋を狭くしている。
みんな本ってどうしてるんでしょうか。やっぱり捨てたり売ったりしてんのかな。
殆ど売ったこと無いんですよ。
もう研究しない生活となると、研究関連の本は正直言って、読みたいものもあるけども、使わないからなあとか思うと、とりあえず段ボールだなとなる。
絶対にとっておくのは小説で、これは今まで読んでこなかったから、読んじゃおうと思って、少しづつは読んでるのだけど、なかなかやっぱり読み進むものではなくて、しかもインターネットしたり映画見てるとまあ読まないし、第一、読み終わったところで食べ物と違って本はなくならないからそれが良くもあり、部屋を狭くもする。
何と言っても、いくら読んだところで役に立たないものを読んでいるから、つまりは楽しみで読んでて楽しい生活なんだけど、江戸期の漢詩和訳とか、しばらく読まなくていいよってこともあって、かといって、それを捨てないで実家に送ったところで、実家では湿度の高い物置に置かれるので必然的に黴が生えて駄目になる。黴が生えてだめになるのでなければどんどんとおくるのだけれど、残念ながらじゃんじゃんカビが生えてしまうので、送るには本たちに忍びない。死地に送るようなものだから、送るわけには行かないと思ってしまう。
でも実家の家族が『日本英学史』とか『歴史講座 近世』とか読まないので、それはもう仕方ないのだけれど。
本以外の物をとにかく減らして、というのもやはり限界があって、これは本をどうにかしなければならない。
大学の恩師も、本の量は困っていた。奥さんも本好きで、家中本だらけになっていたらしい。
DVDとCDはまだ一般性のあるものなので、これは送ってしまって問題ない。さすがにCDは物置に置かないだろうという期待もありつつ。
本が多いのはこれは私の凝り性の所為で、気に入った作家は全集で買うか全部集めるという買い方をしているためであって、どうしても多くならざるを得ない。大江健三郎ってかなり本出してるんだなあと本棚を見ると改めて思う。そして、こうたくさんあると、体系的に読みたくなってしまう。どうせたくさんあるんだから、関係ある本達の関係が一筆書きで理解できるような順番で読みたいと思ってしまう。
例えば、四国の森を舞台にしたものと、それについてのエッセイとか、創作ノートとか、その頃に書かれた評論とか。読みが深まるだろうなと思うんですけども、一方でそんな読み方してどうなるんだと微かには思ったりもする。
大江健三郎だけじゃなくて、ほかにも作家のは多いんだけど、読み終わってどうするかまで考えないといけない。
とりあえず、段ボールに入れておこう。