本当に出たんだなあ。
実際に本屋で目にするまでは本当に発売されると思ってなかった『ボヴァリー夫人論』
買いました。
本当に出たんだなあ。
序章しかまだ読んでない。
テクストの読み方についての理論と実践って感じかなあと思います。
ここで言ってるテクストってのは、言語学の分析対象としての文とは違うものとして捉えられてます。
テクスト論ってのがあったけど、そこでもテクストの読み方っていうのは理論化されて論じられることはなかったと。
テクストっていうのは文の集まりとは違うものであると。
で、例として『ボヴァリー夫人』の「つばめ」っていう馬車の描写が挙げられる。
最初に出てきたときは、狭っ苦しくて窓から外も見えないように書かれてるのに、
次に出てくるときは、たいそう乗り心地が良いように書かれてる。
この齟齬をどう考えるかってえと、どっちかが間違いだとかも言えるんだけど、
間違いと判断することはできないよね、だってそう小説に書いてあるんだから。
となると、このように矛盾するように書かれていても、書かれてるように成立してるのが「テクスト的な現実」ということになるんだけど、
今まで誰もそういうことを論じてないわけ。
でもそれこそがテクストを読むってことじゃないか。
というようなことが大筋では書いてあったと思うんだけど、
『ボヴァリー夫人』では一回も「エマ・ボヴァリー」というフルネームは書かれてないのにも関わらず、
書評とかの『ボヴァリー夫人』を論じたものでは大抵、その事実を無視して「エマ・ボヴァリー」とか書いてるんだけど、テクストに無いこと書くなよみたいなことも書いてるので、
その考えに則ればあらすじもおかしいってことになるんかなとか思っちゃう。
書かれてることに徹底的に拘るというのが面白い。
書かれてることに拘ってただの深読み合戦みたいになってしまうと、よくあるつまらないものだーって本を放ってしまうので、
そんなことのないように、面白い内容で待っててくれ。
男根中心主義とか、インテリが正義を振り回すのだけは勘弁してほしい。
あと、「揺らぎ」とかの決め台詞みたいのが多用されてないといいな。
「読み」とかね。
「読み方」ってのと違うんかと。
「見える化」は「可視化」と何が違うんだろか。
「可食化」って言葉が使われてるかは知らないけれど、
「食べられる化」ってなるんかな、「食べれる化」って表記して「ら抜き」って糾弾されたりするんかな。
「泣ける化」とかね。
映画のリメイクの企画書とかで使われてたりして。
「笑える化」とかも。
『ボヴァリー夫人論』の序章でおもしろかったのは、
『ボヴァリー夫人』を読む前にこっちを読むのはだめって書いてあるところ。
残念ながら私は既に『ボヴァリー』は読んでるので(山田訳ではないけれど)、
逆らうことができない。
いま『本格小説』を読んでるんだけど、
前に『新聞小説』を読んでたときに、主人公が『ボヴァリー夫人』を訳してて、
ふと思い出したんだけども、
新潮社が、有名人/タレントが新訳する叢書を始めたじゃないスカ。
それの企画の一つとして水村美苗訳『ボヴァリー夫人』なのかなって思った。
だとしたら読みたい。
『本格小説』はもっと読みにくいかと思ってたけども、
そんなことなかった。
むしろ読みやすいくらい。
『新聞小説』も読みやすかったしね。
著者の人生の話が多いので(フィクションかもしれないけども)、
発表順に読んだほうが楽しそう。
そんなことを考えたら、
『明暗』をよんでから『続明暗』を読んで、
乞食屋さんと『ボヴァリー夫人』を読んでから『新聞小説』を読まねばなるまいぞなるまいぞ。
つぎは『翻訳小説』とか『政治小説』かしらね。
『全体小説』とか『純粋小説』かな。
『新聞小説』を読み直す前に水村さんのお母様の小説をよまんといかんね。
『新聞小説』をすぐに読み終わって母親に貸したときの感想は「あんまり面白くなかった」だった。それでも母は読んだけども。
つまらなくないと面白いは違うからね。
ブサイクじゃないって言われても喜べないみたいな。
上司に「おいしいパスタ屋知らない?」って聞かれて、困った。
「あたしは何食べても美味しいからさ」と言う。
まずくないと美味いはやはり同じじゃなくて、
不味い!とはっきり覚えているのは、20ウン年食べてきて、10エピソードは無いと思う。
たしかに「美味い!」と言える経験の方が多くしてきているのだけども、
それでも少ないと思う。
だいたいが、「うん、うん」ってもので、
「美味い!」って思うものじゃない。
言い方は悪いけど、まずくないものばかり食べてきた。
最近の経験で思い出せる美味いものは、銀座にできたばかりの洒落た中華料理屋で食べた坦々麺に乗ってた野菜。
用事があって行って、中央通りのその肋骨に平行はしてる、空飛ぶクジラが見えるようなビルとビルとの隙間の路地を通りたくて通ってたら、
花が盛られてて、看板の坦々麺がたしか安かったから。
500円だったと思う。
坦々麺の味は覚えていない。
文句も無いけど、「うまい!」って人に言うほどじゃない。
ただ、雰囲気が高級っぽくて居心地が悪かったのと、
器の表面がざらざらしてるから、箸が底に当たると
(ざらっ)
(ざらっ)
って手に振動はくるし、耳には微かに聞こえるしで、嫌だった。
ただ、乗っけられてる野菜はぐっと味が濃かった。
それ以来野菜の門が開いたみたいで美味しい野菜が食べたいのだけど、
野菜の歯ごたえは感じられても、野菜の味はしない。
一人で食べるものは何を食べてもだいたい一緒という気がしてる私には、
食事は誰と食べるかがかなり大きいので、
味が占める割合はけっこう小さいかもしれない。
本当に美味いと思ったこともあるんだけど、
二度目はそうでもない。
感動はしない。
確認をしに行ってるみたいで、つまらない。
誰と食べるかが大きいとは言え、
美味い方がやはり嬉しいのだけど、
なかなか美味い!という経験はできない。
どうしてあのとき美味かったのか。
本当に感動する美味さだったのは築地の寿司屋で食べたときだった。
天皇誕生日で、寿司が食えるような身分でもないのに、カウンターの寿司を食べた。
カウンターで食べたのは、二度目かもしれないけども、よくわからずに食べてた。
コースがあるんだけども、金がないくせに、
ずらり並んでる魚の名前を言って、好きなモノを食べた。
そのとき一緒に行った友人も感動していて、家族が上京したときに連れて行ったというがやはり、あのときほどではなかったと言っていた。
うまいものと思い出せるのは、小平の吟という店の蕎麦湯。
ざる蕎麦を食べるともらえる蕎麦湯はどろおおっとしてて美味い。
蕎麦が美味いのは会津か、大内宿のネギ蕎麦。
香りと歯ごたえが、ザ蕎麦。
こうして思い出そうとすると、美味いものと不味いものは共に、思い出せるという点でとても良い。
思い出せない方がつまらない。
思い出せるような不味いものばかり食べていたら思い出すこともないのだろけどね。
紅白が終わると氏神へ元朝参りと言って時計的に日付の変わる時間にお参りをするのだけど、
その帰りに見た星空が美しくて、綺麗だと言ったら父が、
すぐに家に帰れて暖房があって明日の心配もないから、綺麗に見えるんだと言って、
たしかに、3.11の夜、なんとか木に捕まったり、やっとある足場にいた人たちに、その人達よりはまだ安全な屋上から、声だけでいるのを確認してた人が、朝には声が聞こえなくなってたと言ってたけれど、そういうときは星どころじゃねえ。
美味いものもそれどころじゃないときもあるかもしれない。
でも、恩寵のように美味いときもあるかもしれない。
美味い!って感動したいけれど、狙ってできるものではないから難しいよねってことです。
映画や小説はわりかし狙って感動できそうけど、
食べ物では難しいかもしれない。
そうでもないんかな。
金沢の酒屋がやってる六本木とかにもある店の、
それを食べてから帰省したときの実家で食べた手巻き寿司は、
何故か海苔がパリっパリで、美味かった。
手作りの方がわりかし美味かった記憶があるかもしれない。
それは、食べ物との関わりが美味いか普通かを決めてるのかもしれない。
佐原で食べた鯛焼きも美味かった。
皮がぱりっぱりで、そこにあんこが挟まれてた。
鯛焼きは可愛い女の子二人と、わざわざ遠出して食べた事があったけれど、
それはそうでもなかった。
オクトーバーフェストで食べたニョッキがもちもちして美味かった。
数年前に高校の同級生と話してて、
高校の頃ほど、音楽に感動しなくなったよねと話した気がする。
そんな気がする一方で、やっぱり今でも、今までのは無し!初めてだよこんなの!
って思うこともたまにはある。
でも、なんか身体の端々まで音楽がめぐってたような気がしちゃうのも確か。
美味いものの記憶にはそういうのがないのは、食べ物には意識的じゃなかったから。
こんな話を、夕方あたりからぽつぽつとちょっとしたものを食べながら話す友達が欲しいとは思う。
うまかったというよりは楽しかった思い出は、
渋谷のセンター街の交番の近くの台湾料理屋で友達と、
昼に定食を食べながら紹興酒を飲んだこと。
あれは良かった。
サンドイッチを作ってピクニックに行って、寝転がってロゼなんか飲みながらというような風情があった。
台湾の教授に貰ったイタリアのチョコも美味かった。
あれは本当に美味しかった。
あんまり美味しくて人にあげまくって、結局一つしか食べられなかったし、
一番食べさせたい人にあげることができなかったのが心残り。