『異邦人』と『翻訳会社「タナカ家」の災難』を読みました。
『異邦人』と『翻訳会社「タナカ家」の災難』を読みました。
『異邦人』はかの有名なセインカミュのおじいさんであるカミュの処女作。
「きょう、ママンが死んだ」という冒頭の文章と、「太陽が暑かったから」という台詞は有名。
内容は、養老院に預けてた母親が死んで数日後に海水浴に行って、
友達の敵を銃で撃ち殺したら捕まって、
裁判では「母親が死んでも泣かない奴」的な扱いで死刑になる話。
なんと、大昔から新潮社の翻訳だけが流通してる。
新訳とかいてある野崎歓のも、抄録。
野崎歓は『よそもの』と訳してる。
サルトルの『嘔吐』だって「むかつき」くらいの意味らしい。
というか、実存主義とか言われてたりする向こうの哲学の用語って言葉自体は平易なものらしいので、
しかしサルトルとかは難しい言葉で哲学が訳されてて、だからまあ『嘔吐』みたいになったのかもしれないけど、
そしてその反動でか『水いらず』みたいな訳書も出てるわけだけど。
親子水入らずの、水いらずのはずなんだけど、よくわかんないよね。
で、
「よそもの」感はとてもあります。
母親が死んで、どうしたらいいかわからないでいたりしてる。
養老院の母親の友達とかが泣いてたりすると、
(口をずっとくちゃくちゃいわせてんな)みたいに思ったりする。
葬式らしく振舞わない、
喪主らしく振舞わない、
母親がなくなったばかりの人らしく悲しまない、
被告らしくしない、
恋人らしくない、
その他もろもろの、
「そーゆーときはふつーはこーすんだろ」というものがことごとくできてない。
それがわかりやすく異文化の人だったら、まあガイジンだしね、みたいな理解もされるかもしれないし、
劣った国の人だなって見下されるかもしれない。
でも主人公はアルジェリアうまれアルジェリア育ち、アルジェリアの人たちと話して生活してて、人種もたぶん白人。
かなり大多数側なのに、普通ができてないから、なんなんだこいつって思われる。
「育て方間違ったんだね」というコメントがあったが、
そういうふうに思われる人たちを思い浮かべると、大体その人達が主人公のムルソーです。
「どうしたらいいのかよくわかってない」というのは、そこの文化に属していない証なのかもしれないけども、
けっこうある『異邦人』票でスーザン・ソンタグだかが、「自分のことを「よそもの」だ」と思わない人はいない、みたいなことを書いてて、
さもありなんと思った。
そーゆー主題の小説ですが、描写がとても良かった。
すてきでした。
『タナカ家』は、翻訳会社を舞台にした話。
他にもキーワードは、父と子、会社小説、ラブストーリー、翻訳、かしら。
ラノベっていうのに入れていいんじゃないかなと思いながら読んでた。
ヒロインが30代というのがなかなかぐっときた。
とても読みやすかった。
漫画を読んでるみたいだった。
キャラの個性的すぎるところとか。
ハーヴァード卒、ソルボンヌ卒、東大卒がいるとか、クールビューティーとか、熱血一本気とか、堅物とか天然とか。
キャラが濃いけども、それがエピソードになってなくて惜しいと思った。エリちゃんをもっと活躍させて!!!
あと、オタク外人がリバー・フェニックス似という設定も活かされてないし、どうしてもダニエル・カールで想像してしまった。
これだけ読みやすかったらもっと長くてもいいのに。
たまに出てくる料理の話は、アクセントになっててよかった。
翻訳の小咄は逆に要らない。くどいというか、そんな話しなくね?って。
まあそうすると翻訳会社が舞台である必要もなくなってしまうのかもしれないけども。
いや、でも面白かったですよ。
翻訳会社ってこーゆーとこなのねっていうのがわかったし。
むしろそのへんの、仕事の説明みたいのがもっとほしかった。
説明っていうか、もっと業務を小説にしてほしかった。
『異邦人』はいわゆる空気よめないとか、天然とか、かなりアウトサイダーな人で、
『タナカ家』はアウトサイドにいた人があつまって翻訳会社やってますな感じ。
ただ、タナカ家って会社で働いてられるだけあって、まともな人間性がある。
ムルソーはそんないわゆる「人間性」っていうイデオロギーが共有できてなくて、
共有できてないことも問題と思ってない。
多様性とか多文化共生とか言う現代では、そこでムルソーを排除しようなんてことにはならないというか、
なんか違うこと書いてる気がする。
みんな多かれ少なかれムルソーだよねってはやっぱ思いますよね。
とりたてて深く感動もしなかったけど、
あの名作と言われる本はこんななのねって。
私は読むのがとても遅いのだけど、
『タナカ家』はすぐに読み終えることが出来た。
これはドライブで助手席から景色を見てる感覚に近い。
寝てもいい、くらいに思ってるドライブ。
初めて通る道だからみたこともないものもあるだろうけども、
基本的に実家のあたりとかなり変わらない風景が続くドライブのときみたいな、気を抜いても大丈夫という安心がある。
逆に、観光地とか、楽しみにしてたとこだと、写真は撮るわメモはするわ、たまに戻って確認するわという進まなさ。
二度とここを通ることはないという緊張もある。
一言一句の読み飛ばしさえ罪みたいに。