オモシロ好き
映画見てきました。
『哀悼の石』っていうギリシャ映画。
銀座エルメスの文化事業で、無料で見られるので行ってきた次第。
何が何だかさっぱり分からず(ワテホンマニヨイワンワ)、
一時間半をとても長く感じました。
というだけでは感想にならないので、
わかったとこだけ書きますと、
舞台はギリシャの片田舎、時代は1980年代後半から90年代後半までの10年くらい。
時代の流れに取り残されず、とうとう開発の手が古代の最先端だったギリシャにもおよんで、
工場やらなんやらを建てようと地質調査をすると、
でるわでるわ遺跡や墳墓。
そして、その土地に住んでる人はどういう人達かというと、
トルコから亡命してきたり、移民だったりという人ばかり。
遺跡を開発する土地には大企業の広告が入れ替わり立ち替わり立てられ、
また遺跡の上にはマクドナルドが店舗を構えたり(地下に遺構を残したまま)と、
古代と現代が交錯する町に、近現代史に翻弄されてやってきた人たちがいる、というくらいしかわかりませんでした。
結局のところ、グローバリズム反対ってことだったんでしょうか。
映像の素材集を見てる気分でした。
一本の筋があってとか、一つのテーマがあってそれに沿った物語やドキュメンタリにしてるというよりは、
遺跡と開発と近現代史の土地でこんなん撮れたんですケド…みたいに、
その素材集の意味は観客にヨロシクって丸投げに見えました。
とは言ってみたものの、丸投げというほどではなくて全編に渡ってナレーションが入っています。
しかし、そのナレーションも一つのテーマを構築するためというようには思えなくて、
むしろ叙事詩の朗読のようでした。
ギリシャ映画ってあんまり観たことないのですが、
きっとギリシャにも小馬鹿にしたようなお涙頂戴とかご都合主義とかあるに決まってるんだけども、
観たことあるのがアンゲロプロスの映画だけなので、
説明しないのが、わかりにくくするのがギリシャ映画の特徴なんかいなと偏見を持ってしまいそうです。
でもきっと、東大とか早稲田とかのゼミでは『哀悼の石』みたいな映画を華麗に論じてたりするんだろうな、すげえなと思ってみてました。
この映画は何のために撮られたんだろう、フィクションなんだろうか、想定された観客はどういった層なんだろうか、ストーリーはあるんだろうか、などなど疑問が一杯でした。
大体、伝統と開発が対立させられたときは、伝統を汚す開発とか、
良いものを悪いものがダメにするという流れだと思うんですけども、
殊更に遺跡の尊さを強調して美しいギリシャのわたし的に賛美するわけでもなく、
かといって極端に悪し様にグローバル展開する大企業を戯画化するわけでもない。
カットアップのように挿入されるその土地の人たちのインタビュー的な個人史の語りもまた、
統一的なテーマでもって集められたエピソードとは思えなかった。
ザ雑多。
とはいえ勿論、芸術好きの学生が憧れに任せて作ったような特権意識的な嫌味も感じられず、
これじゃあ素材集だぜベイビーと思うのがやっと、というような映画でした。
エルメスの映画は今期は「変身」がテーマで、
例えばウディ・アレンの『カメレオンマン』という、他人に合わせて肉体が変わってしまう男の擬似ドキュメンタリーとか、
『グッバイレーニン』という、ベルリンの壁崩壊以前に倒れた母に精神的な衝撃を与えないために共産主義がまだ続いていると見せかけることに奔走する息子の話とか、
自身の性別について悩む思春期前の女の子の話とかが、選ばれてた。
そういうところからすると本作は「不可抗力の変身:変わらざるを得ない田舎」ということだったのかしら。
移民や亡命もまた、変わらざるを得ず、望んだわけでもなく変わることを選ばざるを得なかったという例だったのかしら。
個人レベルの、不可抗力の変身:短期版と、
環境レベルの、不可抗力の変身:長期版という取り合わせだったのかしら。
私の理解で合ってたとしたら、単に作品が面白いと思えなかったということ。
ちなみにだけど『カメレオンマン』も『グッバイレーニン』も、さほど面白くなかったです。
タダで見せてもらっといてつまんねえと言うのもなんですが、
一番面白いのが設定で、
2時間弱に薄めたようにしか思われませんでした。
そりゃあ笑ったり、興味深いフレーズはあったけれど、
終わったときの拍子抜けったらなかった。
友人を誘ってたんだけども断られてしまっていて、
見てる最中に(ああ、友人が来られなくてよかった)とほっとしました。
だってあれはハードコアすぎる。
ああゆうのを見て興奮するのが映画好きなんだろうなあ。
わたしは映画好きではなくてオモシロ好きなんだなと再認識した次第。
見所をご教示いただきたい。