『知と愛』は面白かったです

ヘッセの『知と愛』を読み終わりました。

 

いやー面白かったです。

ネタバレしますと、

アグネスとの密会を重ねるつもりが罠にかけられて伯爵に捕まり、

絞首刑を待つ間に死に物狂いで逃げ道を探るところなんかワクワクしましたね。

その先、損したなと思ったのは、懺悔を聞くことになっていた神父がナルチスであろうと見当をつけたことです。

そして実際にナルチスで、ゴルトムントは恩赦で死罪免除、一緒にマリアブロン修道院へ帰ります。

再び彫刻家として活動できる場所も機会も得たのですが、

一作完成させるともう旅に出たくなってしょうがないというザ芸術家なゴルトムントは、

懐かしのリディアの模した彫刻を未完成のままにしてさらなる放浪に出るのですが、

これがなんとアグネスが近くにいるという噂を聞きつけて再会したさに飛び出したのでした。

時間がたって会ってみればなんともつれないアグネスは、

一瞥くれたが言葉は無くて昔の恋はどこへやら、

ゴルトムントはしょんぼりと肩を落として馬に乗り、

帰ってみてもお笑い種と西へ東へ放浪を続けるつもりが川に落ち、

それが元での大病で、馬服装飾売り飛ばし、入院してたがもういい頃と、

帰ってきてすぐ死んじゃった。

ゴルトムントを旅に向かわせた一つのキッカケに、

近くに住む百姓の娘に対して今まで身につけた手練手管の全てを使って楽しませ喜ばせはしゃがせて、

イザとことに及ぼうとしたらば、年齢のせいでNGと拒絶されたことがあったというのが、

なんとも悲哀でした。

この拒絶までいったいどれだけの時間が経過しているのかは分かりませんが、

たしか親方に弟子入り(ではないんだけど)をしたのが25くらいのときでしょ。

で、3年くらい修行したはずだから、出て行くのが30前だ。

で、そのあとペストの夏があって、

アグネスから出て行くのが秋でしょたしか。

それで一作だけ作ってとなると、

30代ってとこだろうと思います。

まあ、時代が14世紀でしょうから、今みたいな生活してての30代とはわけが違うでしょう。

しかもゴルトムントは10代終わりから30代くらいまで、殆どを放浪で過ごしたんですから、

どうしたって人よりも老いて見えるでしょうね。

ただ、たったひとりの百姓の娘なんですよね。

これが10人くらいとなれば老いのせいだと思っていいと思いますが、

もしかしたらショタコンかもしれないじゃないの。

10人は諦めが悪すぎても、せめて5人とかさ。

もうちょっと頑張ろうよと思ったけれども、

10年以上を百姓の娘や女房をたぶらかして生活してきた男ですからね。

そのスジの悟りも速いですよね。

 

官能と芸術の世界に身を浸して放浪するゴルトムントと、

学問の世界に沈潜して修道院長にまでなったナルチスですが、

こういう場合、けっこうどっちのが凄い、みたいな安易な結論に流れやすいと思います。

「ワシは、学問ばかりにかまけて世界を知ろうとせんかった。欲望に溺れたお前のなんと浄く尊いことよ」となったりするのって、フェアじゃないと思うんです。

たしか辻仁成の『ニュートンの林檎』でもこんなペアがあって、

こっちは最終的に、「俺は世界を知ろうとして世界中を旅して回ったけども、寝たきりのじいさんの方が世界をよおく知ってたってわけか」みたいな終わり方だったと思います。

じゃあどっちが正解ってことでもないでしょうよ。

というくすぶりがありましたが、

『知と愛』では最後、恩赦以降はゴルトムントとナルチスの対話が多くなります。

好き同士だけあってまあ喋ることはたくさんあります。

ナルチスがゴルトムントに「お前は俺が定住して役職もあってじっと落ち着いた平和で安定した生活をしてると思ってるかもしれないけども、そうじゃないんだ。毎日戦ってるんだよ。常に戦ってその結果として得てる平穏なんだ」みたいなことを言うのはかなりグッときました。

楽して平和だもんなと羨んだってだめよと。

もちろん逆に、「お前は才能があるからちゃらちゃらっと彫刻できちゃうんだろ、いいよな」なんてことも言いません。俺にはわからないけども、作ってる最中も出来た後も大変なんだろなと慮ってて、ほんと相思相愛。

 

そんな二人の再会が静かに長く続かないというのも悲しいもんがありますね。

そういう性(ウォウウォウ)なのを誰よりもよくわかってるのがナルチスだというのもまた堪えます。

これだけ合わない性質なのによくまあこれだけの関係が築けたなと。

フィクションなんですけども。

性質は違ってても二人とも高みにいるという点では同じですからね。

ナルチスは思索によって、ゴルトムントは芸術によって、同じ境地にたどり着こうとしてたからだと思います。

殆ど会った途端屋根の上のバイリンガルに一目惚れだから、運命ってことなんですかね。

フィクションなんですけどもね。

 

ナルチスが語るところの、思索と芸術という道の違いが興味深かったです。

思索は抽象的に考えることなんですと。

心象を用いない。

思索の例えに数学を出していました。

数学の問題では具体的に物を決めて考えないのは、思索と同じく抽象的に考えているからだと。

文章問題でのりんごが8つとか、兄は時速8キロで走るとかは、抽象的な問題の応用です。

で、ゴルトムントが主張するところの心象について語らなくては現実には役に立たないという意見には、

基礎があって初めて応用問題ができるんだから、

応用問題を解くためには基礎ができてなくちゃいかん。だから基礎である思索をするのだと答えていて納得でした。

この件で思い出したのが、数学とか算数を習っても社会に出てから何の役にも立たないって意見でした。

そんなさ、小学校や中学校、高校で習うことが役に立つのは基礎なんだから、それがそのまま役に立つのは学校の授業内でしかないだろ。

応用できるために基礎を教えてんだろが。

 

他にもナルチスの言ってたことでハタと膝を打ったのは、

ゴルトムントの意見を「それは思索ではない!ただの感情だ!」と切り捨てたことです。

なんだか眼から鱗、目元に黒子でした。

 

ナルチスと共に修道院へ帰るところも素敵でした。

落語でいう道中づけって言うんですか、浄瑠璃の道行文っていうんですか。

ゴルトムントが辿った道を一つまた一つと遡っていく描写がなんとも懐かしく感じられました。

あれだけかかった道を、いろんな冒険のあった道を今度は馬で、しかも目的地がはっきりしてますからトントン拍子に進みます。

それがさああああっと流れていくのが走馬灯のようでね。

最後にクリの木が出てくるとこなんかもう、やられたなと。

ここに使うために、帰ってきたことを効果的に映すためにこの長編小説をちょっとしつこいくらいなこの木の描写から始めたんだなと思い至ったときにはう〜と唸ったね。後家殺し!

 

描写も美しいんですよ。

ヨーロッパ言語で書かれてるからなんでしょうか、形容詞が多めで、いいなあと思うのが、

ちょっとないような組み合わせなんですね。

同じことを語彙にものを言わせて飾り立てるのではなくて、

正面から見えることを形容して、更には少し後ろやや上方向からも正面とは違う色彩のライトを当てることで、対象が立体的になってくるんです。

現実味を帯びてくるんですね。

その立体感が、ゴルトムントの職業である彫刻家とどれだけ関わってるのかは分かりませんが。

でもとにかく、妙に俗っぽいくらい現実感があるんです。

着眼点がいいというか。モノマネなんかさせたら上手いこと特徴をつかむんだろうなと思っちゃうくらい。

 

描写が良いんだから、比喩も良かったです。

詩人でもあるから比喩がいいなんてあたりめえですが。

 

内容も良かったですが、文章を読む楽しみも味わえました。

 

ただ気になったのが、というとケチをつけるみたいですが、

神の完全さに対比しての人間の未完成さを述べるのによく「無常」という言葉が使われていたので、

一気に仏教っぽさが出てきてしまって、違和感がありました。

ヘッセは『シッダールタ』という小説も書いているくらい仏教や東洋思想に興味のあった作家ですが、

無常って使っててもいいのかしら、

原文を見て、いわゆる「無常」の訳語なのかどうか確認しなければなりませんが、そこまではしません。

「彼岸」という言葉も出てきて、なんだか牡丹餅が食べたくなりました。

明日のおやつには久しぶりにお気に入りの豆大福を買ってこようと思います。

 

そうそう、ナルチスが人間について述べる際に神を対比させてるというのが、とても使い勝手がいいと羨ましく思いました。

神という完全で完成されてる造物主を一方に据えることで、

自分も含む人間というものについて考えやすくなってるんじゃないかなと。

人間について思索するための装置としての「神」があるというのは、

うまいことかんがえたなーと思います。

虚数なんかも同じ感じですよね。存在しないけども、あるものとするとうまくいく。

 

ゴルトムントが「神なんているかどうかわからないのにこんな祈って意味があるのかと思ってしまう」と告白すると、

「人間みたいなしょぼい存在が、完成された造物主である神をいるとかいないとか考えるだけムダ。大事なのは祈ること、祈りを続けることです」というようなことも言ってて、

生活の中のリズムとして、息抜きとして、非日常としてそのような場が組み込まれてるというのも、ちょっといいなと思いました。

 

懺悔室とか聴罪師ってシステムもいいですよね。

今で言うカウンセリングみたいなことかもしれませんが。

人の話を聞くタイプなので、私みたいのが聴罪してたんだと思います。

 

あれ?虚数って、二乗してもマイナスになる数ですよね。

マイナスでもプラスでも二乗すればプラスにしかならないので、虚数は実際には存在しないと。

でも、あることにしようと。

で、気になったのが、どんな理屈があったのか二乗してマイナスになる数があるとして、

そんな元からないものを使って計算しても、辻褄は合うんでしょうけど、根本から崩れてったりしないんですかね。

取らぬ狸の皮算用みたいなことにならないんですかね。

ならないから使われてるんでしょうけど。

もしかして、思索が抽象的な問題を扱ってるということで、虚数が実際にない数字でも、論理的に整合性があるから問題ないってことなんですかね。

まあ、文章問題でもナシをz個とか言われて考えられないことは無いからね。

 

あ、内容で気になったのもありました。

ナルチスとの対話の中で「人間は天から与えられた才能を使って、自分を実現させるようにできている」みたいなこと。

でたよ自己実現

1930年に発表された小説に!

いまウィキペディアを見てみたら、1935年に米国に渡った心理学者が言ったことだとか、

もとは心理学の用語だとか書いてあるので、

1930年発表の小説に「自己実現」みたいなことが書かれてても特段不思議はなさそうです。

とはいえ、「自己実現」ってよくわかんないんですよね。

自己を実現するってナンジャラホイ。

いや、定義とかはわかるんですけど、自分に適しているとか、自分がなり得るってなんなんですかね。

自分が適していると思うものでいいんですかね。

自分しか思ってなくても。

ビッグスターになるのが自分に適してると思ってションベン工場を辞めてニューヨークに行くのが自己実現の一歩?

自己ってそんなに確定してるもんなんですかね。

そういうことを考えちゃうから仕事がないんですかね。

自分探しにインドとか行くべきですかね。

ガチっとしたアイデンティティってものを前提にしてないですかね。そうでもないんかな。

後出しで、これが自分に適していることなんだよウン、住めば都のコスモス荘さ、なんて自分に説得させるために使う言葉ならわかりますけどね。

マズローの欲求5段階説にゲゲッと思ってしまうのは単にオザケンファンだからです。

たしか「うさぎ!」でクソミソに批判してました。

その中でアイデンティティについて書いてたかは覚えてませんが、

何故か、昔習ったアイデンティティの定義と、よく目にする定義が違ってて混乱します。

昔習ったのは、今にして思えば、平野啓一郎が提唱してた「分人」という考え方に似てます。

例えば、先輩と話すとき、家族といるとき、恋人といるとき、憧れの人といるときでは、人って違うよね、でもそれって自分がいないんじゃなくて、それぞれが全部自分なんだ、みたいなことでした。

で、今ウィキペディアみたら、「これこそ本当の自分だ」という実感のあることで、

アイデンティティを正常に獲得している人は、様々な社会的価値やイデオロギーに対して自己の能力を捧げることのできる「忠誠性」を持つ。それが異常な人はカルトや非行に傾くと書いてあって、一部納得しました。

私は今、そこで書かれてる「忠誠性」が無いですね。

たださ、カルトだって迷惑だったり偏ってたりするだろうけど、それも一つのイデオロギーだったり社会的価値じゃないのかね。カルトだから社会的でない価値なのかしら。万民のための価値なんて標榜された方が怪しいけども。

正常か異常かってことがもう価値を含んでるようで、ちょっと信用ならないです。まあウィキペディアだからなあ。

そんなイデオロギーによって決められてる正常やら異常が入ってくるアイデンティティには、正しいアイデンティティと異常なアイデンティティがあるんでしょうね。

胡散臭いなあ。

『知と愛』での自己実現は胡散臭くなかったです。

その、アイデンティティとか自己実現っていう広まってる議論というか用語の中に初めから特定のイデオロギーが組み込まれてるように思われるのが、気持ち悪いんですよね。

天動説とかインテリジェントデザインみたい。

そんな気持ち悪いとか言ってから無職なんだよ。

 

細かいことですが、

「あんた」とか「もひとつ」とか「聞かしてよ」とか、

なんだか口語的というよりは江戸っ子っぽくておかしかったです。小唄とか都々逸みたい。

訳者の高橋健二は1902年に東京の京橋に生まれてるので、チャキチャキの江戸っ子かもしれませんね。

と言っても昔の教授様ですから、しかも文学部ですから、江戸っ子じゃなくて、上流階級であったことは間違いないでしょうね。しかも大震災前の京橋ですから、ほぼ江戸ですよね。

ただ、恐らく育った言葉は落語みたいにくだけてなかったでしょう。

むしろ違いがあったからこそ、その反動か影響でか、庶民の会話文が戯画的に口語調になったため、落語みたいになってしまったんではないでしょうか。

まさか、14世紀のドイツを舞台にしてるため、すこしばかり昔の雰囲気を出そうと落語っぽくしたんですかね。なんてね。

 

次は何を読もうかしら。

もともと『ガラス玉演戯』を読みたくてヘッセを読み始めたんですが、

『シッダールタ』と『知と愛』が面白かったんで、お楽しみを先延ばしにして、

ヘッセの代表作を読んでこうかなと思ってます。

ドイツ語で研究してたんだから、原書で読めたらかっこいいんですけどね、