好意の精一杯

『グリード』『たまたま』『結婚哲学』を見ました。

『思い出のマーニー』も。

 

『グリード』はエーリッヒ・フォン・シュトロハイム監督作品。

もともと9時間くらいの映画を2時間半弱にしたもの。

グリードの意味は強欲とかで、キリスト教七つの大罪の一つ。

強欲さはなんだか圓朝の『真景』や『牡丹燈籠』『鰍沢』みたい。

尤も、圓朝のようにじゃんじゃん殺さないし、圓朝には『グリード』のトリナのような狂気はないけれども。

じゃんじゃん殺して狂気というのがなかったんでしょうかね昔は。

『グリード』では主人公にとって重要な位置を、小鳥が占めていました。

もともと鉱夫であった主人公は、小鳥が倒れてるのを見て、優しく拾い上げると何度も口づけをして労るのですが、それを同僚に誂われると、なんと!その同僚を崖下に投げ落とす(同僚は死なない)。

結婚する際にも奥さんに鳥かごに入れて小鳥を番いで贈る。奥さんが鳥が好きというシーンはなかったので、「気の利かないやつ」という意味もあったのかもしれない。

主人公が危機に陥るとき、その鳥籠に野良猫がとびかかるというあからさまなシーンがあって笑える。

そしてラスト、主人公が死を覚悟してから、その鳥かごの鳥が一匹になっていて、しかも鳥かごから出されるんだけど死んでるというまたしてもあからさまなシーンがある。

象徴なシーンにだけ鳥が使われていて、主人公が鳥好きってよりも説明的すぎでて笑ってしまった。

 

主人公の親友であった明るくて陽気な男がドンドンと執念に取り憑かれるように描かれていくのは見もの。

歯科医馬車はタランティーノの西部劇を思い出させた。

 

「映画って本当にいいものですね」がIVCで解説を書いてるんだけど、本当は解説を読みにくいままに文字おこしして載せてるだけなんだけど、そのあらすじ説明がわたしの理解と違っていたので、見逃していたのか、どこかに裏設定があるのかわかりませんが、ちょっと淀川長治のあらすじは油断がならないと思いました。

あらすじが違うんじゃ?と言えば、柄谷行人による『明暗』論ですが、療養に行くまでの日程把握が私の読んだのと違ってて、これは『明暗』にはインテリ版と馬鹿版の少なくとも2種類があるからです(仮説)。

 

『たまたま』は、蒼井優主演の、アイルランドロケ映画。

自己啓発って言うと言い過ぎだけど、「ほっこり」させにきてる。

ネタバレ上等で言うと、(おそらく大昔に)投函されて、何かの拍子に宛先が水で滲んで判読できなくなった手紙が、本来届きべき宛先に届くって話。

で、大切な人には気持ちをちゃんと言わないといけないぞ。なぜなら、その人とは出会う確率が物凄く低い中で出会ってるから。

だったっけなあ。

動いてる蒼井優が見たくて仕方ない人と、53分だけフィクションが見たいにはオススメ。

特典としてついている監督との対談は、動いてる蒼井優が見たい人にもオススメしません。

 

『結婚哲学』はエルンスト・ルビッチの作品。

浮気モノの喜劇。

ルビッチは小津安二郎にも影響を与えている映画史上に燦然と輝く大監督。

この映画ではゆで卵と珈琲のシーンが有名。

オトナなシーンをさりげなく描写するのがルビッチタッチらしいので、出てきたら「待ってました!」とか「名調子!」とか言いましょう。

字幕での説明が多いわりに、言葉に頼らずに映像だけでも勿論語っているんだけど、やはり昔の映画だけあってよくわからないところもあった。

最後の、妻が「グスタフとキスしたのは本当よ」と打ち明けるシーンで、主人公の谷原章介が大笑いに笑って、妻が言う事を聞かずに呵呵大笑するので、妻は業を煮やしてグスタフを呼び入れて本人にも証言させるんだけど、やっぱり笑いどおしなのね。

なんで谷原章介は笑ってたんだろうか。

 

『マーニー』は『アリエッティ』と同じ監督作品。

風立ちぬ』を一緒に見に行った友達と観賞。

ネタバレ番外地として言うならば、マーニーは主人公である杏奈のグランマなんだけど、

「マーニーって誰なの?」を引っ張りすぎて、

散漫な終わり方になったように思います。

「マーニーが誰か」ってのはどうでもいいとは言わないまでも、

正体が分かって何か変わるわけ?

生まれと育ちにいろいろあった所為で心を閉ざしてしまったアンナちゃんだったが、

そうなんだ、おばあちゃんもおばあちゃんで(少女時代に)大変だったんだとか、

それでけっこう納得してたんとちがうんか?

金を受け取ってるとは言えど、義母が優しいのは変わらんやろと思ったけど、

同じ金を受け取ってるというバーヤやメードと違って、義母はちゃんと愛してくれてるじゃないかという落とし所だったんでしょうか。

「あたしって可哀そう」→「マーニーって可哀そう」→「あたしまだマシじゃん。いや、けっこう恵まれてるほうじゃん」→完

みたいなことなんですかね。

となるとキャッチコピーは「下には下がいる」じゃないすかね。

それってどうなの?

ブラック企業だけど正社員だからフリーターよりまだマシ、フリーターだけどブラック企業よりマシみたいな見下し合戦になっていきませんか、そういう映画じゃないんだろうけどさ。見下し合戦だって気の持ちようって点では一緒だけどさ、あいつよりはマシって考え方は容易に「あいつは〜なくせに良い暮らししやがって」を呼び出せるから、価値観の無限地獄の入り口に誘導してるオチになりますよ。

時系列的にあらすじを説明すると以下のようになります。

マーニーは不遇な少女時代を過ごした後、札幌に出て幸せな結婚をするも

一女をもうけて後に夫はすぐに死別。

病弱故に十分な面倒を見られないためたった一人の愛娘を全寮制の学校に入れ、

その所為で娘は(母から愛されてない!)とグレてしまい、

デキ婚して産んだ途端に夫と共に事故死。

赤ん坊だけ生き残ったので引きとって育てようとするもマーニーばあちゃんはすぐ死んで、

施設に入れられる天涯孤独の子供こそ、主人公のアンナちゃんでした。

里親(って言うのか?)も見つかり初めは明るく暮らしていたけれど、

義理の両親が役所から「孤児養育費」を貰っていることを知ってしまい、

(ああ、金の為に受け入れられてるのねっていうか、受け入れられてるのはお金であたしはおまけね)って思って以来、笑わなくなるし、

まーにーばあちゃんから受け継いだ身体の弱さもあって、どんどん学校にも馴染めなくなっていく。

しゃあない田舎で療養させっかということで釧路の親戚に預けると、

親戚の家の近くには昔ばあちゃんが住んでた家があって、

そこに近づくとマーニーばあちゃんの少女時代の幻影(幽霊?)が現れる。

杏奈ちゃんは花売りの格好させられたり酒を飲ませられたりと楽しく過ごし、親友の出現に大いに喜ぶ。

マーニーは幻影だけどイッパシのトラウマを抱えていて、

杏奈ちゃんは幻影とは知らないままにトラウマ退治を手伝う。

退治しても結局、昔住んでいた家から幻影は消え去るわけではなかった。

しかし、マーニーの正体を突き止め、自分の出生を知り、義母の気持ちを知った杏奈ちゃんはマーニーの幻影が残ったままであろうとなかろうと、晴れやかな表情で釧路を後にするのであった。

 

映画見てる間に何度(『風立ちぬ』は面白かったぞ!)と思ったかわからない。

いちおう、マーニーは何者!?っていう謎で引っ張ってるストーリーだけども、

人の住んでる気配の無い屋敷であることを確認した上での出現なので、

生きている人間ではないということは認めないわけにはいかない。

となると、「あのお化けはなんなの?」というぼやけた謎のままひっぱることも難しいのではないだろうか。

ざっくりと(おばけなんだー…で?)というテンションになってしまって、

ロリータ的な年齢の少女が二人、ストーリーを牽引する軸もないままに「キャッキャウフフ」してて、しかし主人公はマーニーが何者かを気にしてるみたいだぞという、感情移入の難しい展開でした。

こっちはお化けだってわかってんだからさっさと茶番はやめろ!という不満は、

さすがに原作では控えられているようで、

前半が謎のマーニーとウフフ篇、後半がメガネちゃんと共に解決篇となっているらしい。

あんまり前後編と分かれているのは、丸谷才一の『横しぐれ』のように、後半がおまけに見えてしまうのかもしれない。

しかし、である。『横しぐれ』や、もっというと謎解きが後半に控えているものは、謎の提示が功名だったり、ちゃんと言うと、魅力的な、読者にとっても登場人物にとっても興味深い謎だということが必須でなくてはいけないが、『マーニー』はどうだ。

「あのお化け何なの」だ。

「あのお化け何なの」という風に牽引力が半端すぎて、アンナちゃんが「信用できない語り手」である説、マーニーが本物の気狂いである説、アンナちゃんこそ本物の気狂いである説、これからSFに展開していく説などなど、見ながらいくつも選択肢を考えては消しをしていた。

それだけ集中できなかったということでもある。

勿論その観客に集中させなかったのはストーリーの不備だけでなく、登場人物の魅力や描かれ方や、アニメーションを観る楽しさ、ユーモア(の欠如)なんかも挙げられる。

マーニーを謎のキャラでいさせるためのなのか、何か喋っては「ウフフ」と一人でわかって完結してるように笑うようにプログラミングされてるみたいに判で捺したようにそればっかり。

主人公が仲良くできない人は悉く美しく描かれないのも、あからさまで萎える。義母は病弱風で気も弱そうだし(それなのに松嶋菜々子かよ!)、釧路の「しゃべくり豚」なんか同級生の男子の2〜3倍はある身体の大きさに描かれてる上にホーレー線まで描き込まれる!ジブリのホーレー線なんて『おもひでぽろぽろ』以来だよ!あっちは27歳だぞ!主人公が仲良くできないからって醜く描くのは観客を誘導し過ぎじゃない?バーヤもメードもスネ夫みたいにしてさ。そーゆーところはバカにしくさってる程にわかりやすくする割にストーリーはぼやけさせたままにして、重要なのは視覚的偏見の増長かよと皮肉を言いたくなったりして。

アニメーションで作る意義も特にわからなかった。あの話なら実写でいいんじゃないのかしら。『おもひでぽろぽろ』の有名な、ストライクのあとの空中散歩は実写でCGにすると嫌になるくらい嫌味だろうけど、アニメだからこその自然だったし。むしろ、アニメであるからこそ、たまに頭と体のバランスが崩れてるように見えたりして、悪い意味で(ああ、アニメならではだなあ)と現実に戻されたりした。

別にユーモアが随所に散りばめられてなくてはいけないと言いたいわけではないのだけど、テーマを重く見させようとしてるのか、ユーモアの無さが不自然なくらいだった。「ふとっちょ豚」(だっけ?)という主人公による罵りが聞いた瞬間こそ笑えるものの、すぐに(それはねえよなあ)と引いてしまうし、耳障りなほど繰り返されるマーニーの「ウフフ」も私にはつられて笑みがこぼれるものでもなかった。もしかしたら笑うことを忘れてしまった主人公に合わせてユーモアを消して、更には映画全体を面白くなくしたのかもしれない、とさえ邪推してしまう。

主人公の回復の仕方が倫理的でもなければ、ストーリーにドキドキもなく、主人公への共感も妨げられて、アニメーションを観る楽しさもなく、笑えるわけでもない。

じゃあいったい何があったんだろうか。

子どもらしい醜さはありましたね。ノートか何かを届けたクラスメイトによる軽口や、釧路の男子による無口な大人への侮り、主人公による級長への罵倒とつられて笑うモブ。そういう意味ではリアリスティックかしら。

でも、アンナちゃんが目から覚めるとどっかにぶっ倒れてるっていうのはどうなんですかね。あの現実への戻し方は雑だなあと思いました。すぐ眠くなるのも都合が良すぎてげんなり。毛利小五郎じゃないんだから。

まてよ、マーニーは夢魔なのではないだろうか。人を眠らせ、眠りの中に入り記憶を書き換える能力を持った妖怪なのではないだろうか。人間嫌いの女の子に取り付いた夢魔が、近所の別荘にあった日記や、近所の人の思い出話の中にやれもか回収されていくという、解釈することの恐ろしさを説いた映画なのではなかろうか。

とふざけるのが好意の精一杯です。