困った

ずっと噺家になりたいと思っていて、それがカルト的だなあとも思っている。

複雑で見通しの効かない現実に対して分かりやすい物語を提示しているという点で、

カルト宗教にハマる人になってる気がする。

 

落語好きの友達と話していて、いつか入門しようと話している自分が、

カルト宗教にハマっている二人組に思えてくる。

若さのない小奇麗でもない二人が、

地方都市の駅前のドトールで一番安い珈琲で閉店まで粘って、

ずっとずっと入門するんだと話している姿は不気味だ。

社会の健全なイメージから全く外れている。

出家のような喩えをいつもイメージしながら、でも気味が悪くて口に出せないでいる。

でもとてもカルト宗教的だ。

考えが狭くなっている。

 

先行きの見通しさえ立てられないとき、分かりやすい物語を提示されることはとても弱い。

まるでそこに入れば生きやすくなるような気さえする。

用意された物語の中で生きていればいいのだ。

その中にあるもので全て説明できるというのは、とても楽で、考えられなくなる。

とても楽だ。

だから惹かれている。

きっとオウムに入信した人たちは今の私のような気持ちだったんだろうと、村上春樹のオウム本を読んだだけで思ってしまう。

そうだとすると多分、オウムに入った人たちはきっとかなりどうでも良くなりながら、

ほんとのこというとどうにかしたいけど、

どれもこれも今ひとつ芯を打たないんだと思う。

私がそうです。

ふっと、用意してた物語から出てしまって、外から眺めるとそれはどうにもまた戻る程のものに思えない。

となるとさて、どうしたもんかと思ってまだ、行動力の勢いだけで動いてみた時のあたりどころが悪くてまた、

物語のない真空に放り出されたとき、シニカルに受け止める程の肝もなく、

まだ何かを信じたがる割にどう信じたらいいのかもわからないくらいにこじれてたりすると、

全く知らない世界にあって続いてる分かりやすい物語に取り憑かれます。

まるで現実と完全に別な世界があって、そこからなら一からやり直せるような錯覚があります。

別な論理の中なら何か信じて生きていける気がしてきます。

小林よしのりのオウム本で、たしか親戚のおばさんが何を言っても聞かずにある宗教を信じてたという話で、

あのおばさんにとってはあれが現実なのだということが書いてありました。

ほんとにそうで、別な論理が本当の世界で、現実は世を忍ぶ仮の姿という、話の通じない人になりそうになっていますわたし。

現実とのチャンネルがかなり危うくなっていくんだと思いますこのままだと。

いわゆる、気が触れた人、とまでいかないけど、日常生活に適していないタイプの、

独り言の多い、こ汚い、自分のことしかしない人になっていくんだと思います。

それを止めるには現実の中で生きるしかなくて、

今思いつくのは二通り。

入門して、お笑いのビジネスの世界という現実を見ること、

落語を聴くのを止めて、正社員として働くこと。

そのどちらかだ。

もちろん、独り言が多いことが悪いわけじゃなくて、

カルト宗教だって悪いわけじゃない。

ダメなのは他人が嫌がることをすること。

自分のペットだって虐待してるのを見たら嫌な気持ちってくらいの、

迷惑かけたかじゃなくて、嫌がることはだめよね。

そうなると適用範囲が広くなりすぎるんだけど。

 

今年の目標を結婚と誓ったのが元朝参り。

噺家になりたいと思ったのが1月の終わり。

噺家だって結婚できます。

でもこれから入門じゃ結婚は遅いだろうな。

そもそも相手がいませんが。

年下の結婚してる人は「やめられないわー」と言ってたけど、

私は何もないので辞められないことがない。

ただ、迷惑をかけるという罪悪感だけで。

あと、カルトとしての落語という理解であるかがひっかかるだけで。

 

オウム本の、オウムに入信した人たちの話で、

わかるわーわかるわーと頷いたり膝を叩いたりしながら読んでるとき、

自分もそっち側なんだなと思う反面、

どこにでもいる普通の人がハマるからあんなに大きくなったんだなとも思いました。

ただの気の迷いとさえ取られかねない。

 

純化しすぎて捉えているんじゃないか。

泣ける映画の広告みたいに思ってるんじゃないかしら。

かといって、逃げ出したいほどの辛く苦しい現実でもないのがまた困りもの。

むしろむしろ、どうにでもなっていいと思ってるわりに、

どうにかなるさと楽観的で

死にゃあしないとのんきに構えているからこそ、そんな取り憑かれるスキがあるんだろう。

一番の魅力が、分かりやすい物語だというのは参ったね。

そして宗教と違ってていいのは、お布施がないことと、笑いがあること。

いや、笑いと芸があるから落語が好きなんだ。

批評でもある点も好きだし、寄席で落語をしなくてもいいところが好き。

 

村上春樹が物語というときって三島由紀夫が言ったところの「大義」だと思う。

戦争で国のために死ぬとかの大義がないままに生き続けた三島由紀夫みたいに村上春樹も言ってる気がするのは、

オウム本とかオウム信者についての本で、彼らに有効な物語を提供できなかったとか、オウムが用意した物語に対抗できる物語を書けなかった作家の問題でもあるみたいなことをたしかどっかで書いてたような気もするけど、気のせいかもしれない。

もちろん、三島の言う大義はマスを操るツールで、村上春樹が言うのは個人がどう物語を活用できるかみたいな、向いてる方向の違いはあるけれど。

大義がないです。

結婚してる年下の人みたいな日常生活に直にくっついてる大義もなくて、

世の中ついでに生きてるみたいで、でもなんとかしたいくせにどうしたらいいかさっぱりって人が私です。

駄々っ子みたいに手続きを経ずに全面黒にひっくり返したくて噺家になりたいだけかしら。

そういう悩みとかも無いと期待してたのに、

全くそんなことなくて、困る。

むしろ悩みが深くなっただけだった。