超越性に結びつかない信仰
昨日が休みで明日も休み、明後日も休みで、することがないというしょうもなさ、
という言い訳にして好きな尊敬する人にメールを出そうかと思ってるんですが、
期待されると知ってると書けなくなります。
そして言い訳じみたことを書いて誤魔化そうとしてしまいます。
その言い訳の見苦しいこと!
今までは純粋に、こんなこと言いたいとかこんな面白いことがあったとか書いてました。
聞いてくれよ!という感じ。
小学生が先生になつくような。
言いたいことがあって、その面白さをわかってくれて、一緒に楽しんでくれる!という確信があってできることだったけど、
何だか「それを書く自分」という邪魔な層が出てきてしまってて、大変書きにくいです。
自我の芽生え。
自己と他者の区別なしに面白がってたのに、
相手から他者であることを指摘されたことで、
書く自己、読む他人という関係を意識せざるを得なくなると、
途端に今までのようには書けなくなり、
結果、何をどう書いていいのやらサッパリとなります。
でも、こんな面白いことがあったとか、
こんな本を見つけたとか、
誰の何て写真がいいとか、
洒落た店を見つけたとか、
こーゆーチーズ知ってる?とか
この前の話の続きとか、
共通の友人の近況とか、
思いついた小咄とか、
言いたい事がたくさんあって、
たぶんこの人にしか伝わって欲しいように伝わらないだろうし、
一番分かってほしいし
面白さを共有したい人でもある。
そう思いながらメールを書いてると、
死んだ人に向かって書いてるみたいな気がしてきます。
位牌に向かって手を合わせているような気がしてきます。
ちゃんと生きてるんですけどね。
おそらく。
返事がないから一緒っちゃあ一緒だけども、
やっぱ生きてると思って書けるのは有難い。
死者に向かってあれも言いたいこれも言いたいと書いてたら小説になっちまう。
そう思える人がいるのは(仮定みたいなもんだとしても)かなり楽です。
超越性に結びつかない信仰みたい。
何でそう思えるんですかね。
思い込みなんだろうから、それもまた信仰チック。
信仰とまで言いながらも、けっこう諦めてるフシはあります。
もう会えないだろうなとか、
あまり親密になれないだろうなとか、
金が無いから結婚できないだろうなとか、
現実的に諦めつつも成立してる点もレリジャス。
そんな信仰告白を駄文と思って読んだらびっくりするだろな。
これは求めてねえよ!って。